少年とカエルの調査 | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・「鳥取砂丘のカエル」を掲載したばかりですが、「少年とカエルの調査」番外として、鳥取県のニュースを紹介しなければならなくなりました。


少年とカエル(番外)

<鳥取城>飢餓キャラ「かつ江さん」市民の批判で公開中止

鳥取城跡のマスコットキャラクター「かつ江(渇え)さん」が、その見た目や名前から波紋を広げている。羽柴(豊臣)秀吉による鳥取城の兵糧攻め「鳥取の渇え殺し」(1581年)に巻き込まれた民衆をイメージし、右手にカエルを持つ女性のイラストで、2014年7月7日午後に市のホームページ(HP)で公開を始めると9日朝までに6万3000件以上のアクセスがあった。市民から「不快だ」などと批判の声も寄せられ、市教委は同日公開を中止した。かつ江さんは、鳥取市教委の公募に市内の男性が応募し次点の優秀賞に選ばれた作品。7日からHPで画像を公開して2次利用も認めたところ、アクセスが急増。一方で「行政が飢餓をちゃかしている」「同じ名前の人もいて不快だ」などの声も。市教委は「飢餓を揶揄(やゆ)しているわけではなく、兵糧攻めを考える上でふさわしいと思い採用した」と説明。今後、イラストはそのままで名前だけを変え公開し直すという。また市教委はかつ江さんの名前付きのイラストを使い、鳥取城跡を紹介したパンフレットを既に3000部作製しているが、「このままでは配布できないので対応を考える」としている。


鳥取県鳥取市は、日に鳥取市公式ウェブサイトで公開した籠城戦マスコットキャラクターの「かつ江さん」を、日にいったん公開中止とした。「かつ江さん」は羽柴秀吉による兵糧攻め「鳥取城の渇え殺し」をモチーフにしていた。鳥取市によると、キャラクター選定の趣旨は広く理解され、すでに多くの人に利用されているというが、利用規約等の再確認のため、一旦公開を中止したという。利用や二次利用の制限を努めて減らした形で発表されたが、市では、名称・画像も含め、当面の間の利用自粛を呼びかけている。「かつ江さん」は鳥取城跡キャラクター公募で次点となったキャラクターだが、「ゆるキャラなのに全然ゆるくない」「設定が重い」「物悲しい」と注目を集めていた。


・・・すでに関係ページは削除されているのですが、いったんネット上に掲載した画像は回収することは不可能です。ということで、その画像を見てガクゼンとしました。そして、


ベネチアの現代美術館「プンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana)」岬の突端に立ち蛙を手にする少年の像Boy with Frog美術館開館のために1953年生まれのチャールズ・レイに注文されたこの像はその白さと古典的造型によってヴェネト地方が生んだ最大の彫刻家カノーヴァを思わせ蛙によって沼沢地であったこの街の歴史を暗示しながらも少年の不敵な表情と大理石ならぬその素材(ステンレスとアクリル系ポリウレタン)とが一挙に西洋美術の伝統を相対化する。作者のレイ氏は過去のインタビューで、カエルの足を持ち上げ見つめる少年の像は、好奇心と恐れ、嫌悪が混ざった感情を表現していると語っている。



・・・そして、「少年とカエル」はいなくなった。このカエルと重なって悲しくなるのです。


かつ1


・・・まったくもって、同じようにカエルをぶらさげてはいるのですが、意味するところは「光と影」「陽と陰」です。あえてコメントは避けますが、カエルをこよなく愛する者として、本当に悲しいニュースです。


かつ2


鳥取市が2014年7月7日、マスコットキャラクター“かつ江(渇え)さん”を公式サイトで紹介。飢餓に悩まされる民というゆるキャラらしくないコンセプトがネット上で話題になっている。かつ江さんは、羽柴秀吉による鳥取城攻めを題材としたキャラクター。この戦いに巻き込まれ、飢餓に悩まされながらも生き延びた住民の姿をモチーフとしている。鳥取城跡キャラクター公募で次点となったキャラクターだが、日、鳥取市公式サイトにて“籠城戦マスコットキャラクター”として改めて紹介されると、ネット上で「ゆるキャラなのに全然ゆるくない」「設定が重い」「物悲しい」と注目を集めた。また、かつ江さんには二次創作のガイドラインも用意されており、「極力使用や二次利用に制限をかけない形で、みなさんに提供することにしました」と公式サイトに明記されている。そのため早くも自作のかつ江さんイラストがTwitterなどに投稿され、盛り上がりを見せている。千葉県船橋市のふなっしー、愛知県岡崎市のオカザえもんと変わり種のゆるキャラがブームを巻き起こしているが、かつ江さんも今後さらに注目度が上がっていくかもしれない!?



鳥取市、“籠城戦マスコット”「かつ江(渇え)さん」の公開を9日に中止した。「利用規約等の再確認のため」と説明している。当初、「2次利用や2次創作は自由」としていたが、公開中止に伴い、名称・画像の利用や2次利用を自粛するよう呼び掛けている。かつ江さんは、鳥取城跡マスコットキャラクターの公募で次点に選ばれたキャラ。ボロボロの着物に苦しげな表情でカエルを持った姿で、戦国時代、羽柴秀吉による“鳥取の渇え殺し”と呼ばれた兵糧攻めによる籠城戦に巻き込まれた住民を描いていた。かつ江さんのイラストがネットで公開されると、インパクトの強さから話題が広がったが、「凄惨な歴史的事実を茶化しているようで不快」といった否定的な意見も上がり、市は8日、「因幡の人たちのたくましい姿を形象した」と、選定の意図を説明していた。市は9日夜までに、かつ江さんのイラストをWebサイトから削除。「選定の趣旨は広くご理解いただき、多くの方にご利用いただいているところですが、利用規約等の再確認のため」公開を中止したと説明している。


かつ3


鳥取市が、“籠城戦マスコットキャラ”として公開した「かつ江(渇え)さん」への賛否両論を受け、「かつ江(渇え)さん」は「因幡の人たちのたくましい姿描いた」鳥取市が選出の意図を公式サイト上で追加説明している。鳥取市が“籠城戦マスコットキャラクター”として公開した苦しげなビジュアルの「かつ江(渇え)さん」。歴史に残る痛ましい戦いを題材にしたキャラに否定的な意見も寄せられていることを受け、同市は「因幡の人たちのたくましい姿を描いた」と選んだ意図を説明している。「かつ江(渇え)さん」は、2013年12月から2014月に実施した鳥取城跡マスコットキャラクターの公募で次点に選ばれた。マスコットの募集は旧鳥取藩主・池田家から鳥取城が同市に寄贈されて今年で70年を迎えることなどから行われ、「とりのじょう」が選出されている。鳥取城は戦国時代、羽柴秀吉による“鳥取の渇え殺し”と呼ばれた兵糧攻めによる籠城戦でも知られており、城に逃げ込んだ周辺住民も多くが犠牲になったとされる。ボロボロの着物に苦しげな表情でカエルを持つ「かつ江(渇え)さん」は、この合戦に巻き込まれた住民を描いている。そのインパクトゆえにネット上で話題になったが、「デフォルメする題材としてどうなのか」「凄惨な歴史的事実を茶化しているようで不快」といった否定的な意見も上がっていた。日、鳥取市は追加でコメントを発表。通常は武将の戦いとして扱われることが多い籠城戦だが、その戦いに巻き込まれた「一般の住民たち」の姿が描かれることはわずかだったという。「かつ江(渇え)さん」は「毛利方でも織田方でもない、一般の住民を描いたキャラクター」であることに価値があるとし、「武力と武力のぶつかり合いに巻き込まれ、飢餓に悩まされながらも生き延びた、因幡の人たちのたくましい姿を形象した」と説明している。利用に関しては趣旨の理解を求め、「他の人を不快にさせ、または傷つけるために公式画像あるいは2次創作物を使うことはできません」と強調している。



鳥取市が、その壮絶さで知られる鳥取城の兵糧攻めをモチーフにしたキャラクター「かつ江(渇え)さん」を公開した。2次利用や2次創作は自由。鳥取市が“籠城戦マスコットキャラクター”としてゆるキャラ(?)「かつ江(渇え)さん」を公開した。兵糧攻め“鳥取の渇え殺し”をモチーフにしたインパクトある見た目に話題が集まっている。鳥取城公式キャラクターの公募で「とりのじょう」に続く次点となった「かつ江(渇え)さん」。鳥取城は羽柴秀吉による兵糧攻め“鳥取の渇え殺し”で知られ、彼女も“籠城戦マスコットキャラクター”として公開されている。平面、立体を問わず2次利用や2次創作は自由となっており、「ぜひ、みなさんのオリジナリティを活かしてください!」としている。苦しそうな表情でふらつき、傷んだ着物に裸足、片手に握りしめているのはカエル――というインパクトあるビジュアルがネット上で話題に。「どう受け止めたらいいのか分からない」「とりのじょうの肥えっぷりと比較するとヤバい」「2次創作OKと言われても・・・」など困惑する声も寄せられている。



鳥取市教育委員会は2014年7月9日、鳥取城跡の新キャラクターのうち、戦国時代に兵糧攻めを生き延びた庶民をイメージした「かつ江さん」について市ホームページでの公開を一時中止すると発表した。「飢餓を連想させる」との批判の声が寄せられたため。担当する文化財課は今後、使用するかどうかも含めて検討する。市教委は昨年12月~今年2月、鳥取城跡をPRするキャラを公募。「かつ江さん」は、青白い顔でげっそりとした女性が、ぼろぼろの着物を身につけ右手にカエルを握り締めている。1580~81年、羽柴秀吉に兵糧攻めにされ落城した「鳥取の渇え殺し」をモチーフに、市内の男性が考案した。


・・・応募した男性も複雑なお気持ちでしょう。選ばれた喜びと批判された憤りと。議員選挙もそうですが、選んだ責任(教育委員会)は大きいと思いますよ。


かつ4


呪われた鳥取城~兵糧攻めがもたらした身の毛もよだつこの世の地獄絵図~

城を攻めるにはいくつかの方法があるが、中でも「兵糧攻め」と言う方法は直接武器を交える戦法ではないが、考えると最も残酷で恐ろしい方法である。この兵糧攻めにかかり落城したものの中に鳥取城があるが、歴史上、見るも凄惨なこの世の生き地獄を現出した

天正8年(1581)6月、秀吉は鳥取城攻略のために約2万の大軍を率いて姫路をたった。大釈山(たいしゃくざん)に本陣を構えた秀吉はたちまち鳥取城を大軍で包囲した。それに先立ち、秀吉は相場の数倍という値で米を買いあさっておくことを忘れなかった。この時、鳥取城では毛利氏の援軍をあてにして20日分ばかりの兵糧しか用意していなかったのである。包囲されてたちまち2か月が過ぎた。それまでに何度か毛利からの援軍はあったが、陸路も海路もことごとく秀吉の大軍に阻まれて失敗した。すでに城内では兵糧はとっくに尽き餓えが始まっていた。食べられると思われる木の葉は食べ尽くされ、はては乗馬は殺されて、その肉は城兵に少しづつ分け与えられたが長続きしなかった。餓えた者の中には家宝などを持ち出してはなけなしの馬肉と交換してくれと哀願する者もあったが、こうなってくるとどんな高価なものを見せられても誰も見向きもしなかった。餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」・・・信長公記にはこう記されている。

秀吉の大軍が包囲して4か月がたち10月になった。城内の兵、百姓、婦女子約4千には餓死する者が出始めていた。やがて、三の丸の者たちが死人の肉を食べているという噂が流れはじめた。戦どころではなく寒さと餓えに疲労困ぱいした城兵は、雑草をも食べ尽くしたあげく、埋められた死者を掘り起こし死人の肉を食べはじめたのである。城の回りには柵が設けられており、城外に逃れることは出来なかったが、あえて城内で餓死を待つよりはと柵をよじのぼり、逃れようとするが、それを待っていたかのように鉄砲が撃ちかけられる。撃たれた者が柵より転げ落ちるとまだ息のある負傷者に近くにいた者がナタや小刀を振りかざして、われ先に群がり、関節を砕き、まるで牛や馬をさばくかのように、たちまちバラバラにして食べるのであった。特に頭の部分が栄養があって一番うまく、生首を両手に抱えて逃げていく者など、生に執着するばかりのおぞましい餓鬼道ぶりであった。また死人の首の奪い合いで命を落とす者が出ると、今度はその死者の頭や肉を食らわんがために蟻のように群がっていくという、身の毛のよだつこの世の地獄絵図を現出したのである。「糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども、それも程なく尽きぬれば餓死し、人の宍を食合へり・・・・子は親を食し、弟は兄を食し杯しける」・・・豊鏡(とよかがみ)では地獄の惨状をこうしるしている。この城内の凄惨さに見るに見かねた吉川経家は、もはやこれまでと自決の条件で開城することにして、城兵の命を助けることにした。

秀吉はこれを許し餓えた城兵のために道のほとりに大がまを並べて粥を煮た。やがて開城されて餓えのためにふらふらになって出てきた城兵たちは、目の前の粥を見て押さえきれるはずもなく、ガツガツとむさぼり食った。のために、急に食べすぎたためにせっかく生き長らえた者たちも、ほとんど死んでしまった。のち、鳥取城の廃虚には食人鬼の怨念と亡霊が長く現われたために、人々は恐れて夜は決して近づくことはなかったという。



かつ5


・・・悲しいニュースでしたが、いろいろ勉強になりました。今後の成り行きを、注目していきたいと思います。