◆【石清水八幡宮】◆
614-8588京都府八幡市八幡高坊30/075-981-3001
平成24年1月24日付で官報告示がなされ、石清水八幡宮境内が国の史跡として指定されました。八幡市では、昭和32年(1957年)に「松花堂およびその跡」が国史跡に指定されて以来、54年ぶり2件目です。
●頓宮
年に一度、勅祭石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる頓宮殿は重儀が斎行される重要な社殿です。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失ののち、男山四十八坊の一つ「岩本坊」の神殿を移築し、仮宮としていましたが、現在の社殿は大正4年に造営されたもので、平成22年から同23年にかけて修復工事が行われ、昭和24年以来、実に62年ぶりの屋根の葺き替えとなり、桧皮葺であった屋根から、より耐久性のある銅板葺に葺き替えられました。また、南門は、もと山上の南総門であったものを昭和14年に移築してきたものであり、頓宮殿と同様「平成の大修造」事業において桧皮葺屋根から銅板葺屋根に葺き替えられました。
●一ノ鳥居
表参道入口に立つ、石清水八幡宮の山麓の顔「一ノ鳥居」は、高さ約9m、最大幅約11mの花崗岩製。最初は木製でしたが、寛永13(1636)年に松花堂昭乗(1548~1639)の発案により石鳥居に造り替えられました。この鳥居に掛かる、紺地に金文字で「八幡宮」と書かれた額は、元は、一条天皇(980~1011)の勅額で、長徳年間(995~999)に小野道風・藤原佐理とともに平安の三蹟と称えられる藤原行成(972~1027)が天皇の勅を奉じて筆を執ったものでしたが、現在の額は寛永の三筆と称された松花堂昭乗が元和5(1619)年、行成筆跡の通りに書写したものです。特に「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外に向けた独特のデザインとなっています。
●走井餅
江戸時代中期の明和元年(1764年)に大津で創業、湧水「走井」を用いて、初代井口市郎右衛門正勝が餡餅を作ったことに始まります。走井は、成務天皇の産湯に用い賜れるほどの名高い水でありました。刀の荒身を模した独特の形は、平安時代に名を馳せた刀鍛冶・三條小鍛冶宗近が走井で名剣を鍛えたという故事にちなみ、剣難を逃れ、開運出世の縁起を担いだものと伝えられています。安藤広重「東海道五十三次」の大津宿にも描かれた大津名物走井餅は、明治43年(1910年)6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって、名水で名高い石清水のふもとへ引き継がれました。やわたへ受け継がれほどなくして大津の本家は廃業。その跡は現在、月心寺となっております。井口家の生家で、走井餅発祥のその場所には、今でも滾々と走井の名水がわき続けております。なお本家廃業と同時に、当家が直系唯一の走井餅となりました。大津では明治天皇へ、やわたへ移ってからは昭和天皇へ献上された由緒深い走井餅。 大津で150年、やわたで100年。かつての大津名物は250年ものときを経て、石清水八幡大神のご加護と、絶え間なきお客様のご支援により、石清水八幡宮のお参りに欠かせないやわた名物と言っていただくようになりました。
●男山ケーブル
所要時間約3分で男山山麓-山上をつなぐ男山ケーブルは、大正15(1926)年、男山索道が八幡口~男山間を開業、昭和3(1928)年には男山鉄道に社名変更するが昭和19(1944)年に戦時中の鉄資材供給のため廃止されました。昭和30(1955)年、京阪電気鉄道鋼索線として八幡口(現・八幡市)~八幡宮(現・男山山上)間を再開業し、毎年多くの参詣者を運んでいます。鉄道の中程には、ケーブルカーの鉄橋としては日本一の橋脚(約50m)があり、車窓から途方を望めば、眼下に木津川・宇治川を擁した南山城平野が一望できます。
・・・歩いて登ろうかとも思いましたが、体力の温存と何よりもケーブルに乗りたい気持ちが勝って、なんと私一人の貸切状態で山上駅へ。
●谷崎潤一郎の文学碑
「山崎の橋」は何度も流され、文禄年間(1592-1595年)の架橋後は1930年に八幡の桂川・宇治川・木津川の三川合流点に、御幸橋(木津川御幸橋352m、淀川御幸橋262m)が架設されるまでは、対岸の山崎とは「山崎の渡し」と呼ばれる渡し船で往来していた。「山崎の渡し」は1962年まで運行しており、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう1886-1965年)は『蘆刈』(1932年)で「男山はあたかもその絵にあるやうにまんまるな月を背中にして全山の木々の繁みがびろうどのやうな津やをふくみ・・・」と山崎の渡し舟からみる男山の光景を描いている。
・・・芦屋市に「谷崎潤一郎文学館」があるので、そこにも行ってみたいなあと思う。
・・・ようやく、お参りです。