・・・「大阪」の原点、とも言うべき「逢坂」までやってきました。
◆天神坂
天王寺七坂の一つ、安居天神へと続くことによる。距離142m・高低差11.82m。
◆興禅寺
543-0061大阪市天王寺区伶人町5-28/06-6771-2469
寺記によると早創年代は不明だが、元は住吉大社の北百歩ばかりの所にあり三柱の神を鎮守とし、法橋定朝作の観世音菩薩像を祀っていたと記されている。万治3年(1660年)、月舟宗胡を請して開山に迎え禅堂、庫裏を創建した。後に明治13年(1880年)、現在の場所へ転地している。天王寺七坂の一つ、天神坂の途中にある。境内に「厄除け不動明王」が安置されており、厄除けの寺として知られている。
◆安居神社
543-0062大阪市天王寺区逢阪1-3-24/06-6771-4932
少彦名神(すくなひこなのかみ)、菅原道真を祀る古社。昌泰4年(901)菅原道真が太宰府に左遷された際、河内の道明寺にいた伯母覚寿尼を訪ねて行く途中、ここへ立ち寄って安井(休憩)した。当時、道真に同情した村人がおこしを差し上げると、お礼にと菅原家の紋所「梅鉢」をもらった。これが、今でも大阪名物の「粟おこし」の商標の梅鉢となったといわれている。安居天神社は、その道真の死後の天慶5年(942)、道真の霊を祀るために村人たちが建てたもの。また、当地は四天王寺の僧侶がここで夏安居(げあんご:雨季の間に外出を控え寺院で修行に専念すること)することもあり、「安井」が「安居」になったという。境内には、道真も口にしたといわれる天王寺七名水のひとつ「かんしづめ(癇鎮め)の井」のほか、大坂夏の陣で徳川方に討たれて戦死した真田幸村の記念碑が建つ。
◆逢坂/距離358m・高低差19.32m。
国道25号(竜田越奈良街道)の坂。または同市天王寺区の町名(ただし、町名はこざとへんの「阪」)。名称は逢坂関に由来するとも、聖徳太子と物部守屋が法について討論した合法四会に由来するとも言われる。「合坂」、「相坂」とも表記された。
◆一心寺
543-0062大阪市天王寺区逢坂2-8-69/06-6771-0444
夕陽丘の一角に位置する一心寺は、文治元年(1185)、法然上人が四天王寺西門の西側あたりに、草庵を結んだのが始まりとされる浄土宗の寺院。後白河法皇もこの地で、西方に沈みゆく太陽に向かって念仏を唱え、極楽生涯を願う「日想観」の修行を行ったといわれる。現在の境内地は、秀吉の夫人高台院からの拝領によるもの。大坂冬・夏の陣では徳川家康の本陣が置かれた場所としても有名だ。また、一心寺は「お骨佛の寺」としても知られ、納骨堂には人骨でつくられた仏像が安置されている。これは、江戸時代末期から宗派を問わず庶民が納骨に訪れ、明治20年(1887)に約5万体の納骨でもって「お骨佛」がつくられて以来、10年ごとに1体の仏像をつくることになった。現在まで12体の仏像がつくられ、納骨堂には戦後の6体が安置されている。建築家でもある現住職の設計による山門や日想殿も見どころ。山門は平成9年4月、第12期お骨佛開眼大法要にあわせて、平成7年より2ヵ年をかけて建立されました。仁王尊は彫刻家・神戸峰男氏による5メートル余の青銅像。左側・口を開いている阿形像は心の邪念を戒め、右側口を閉じた吽形像は世の乱れを睨んでおります。扉の4人の天女は画家・秋野不矩氏の原画を神戸氏が浮き彫りにされました。インドから日本にいたる仏教世界の文化を帯して少しづつ顔やお姿が違います。インドの仏蹟では、人々がその胸と腰にふれて生命のご利益とされます。昭和20年に空襲で焼失した旧山門は、大坂城玉造り御門の移築と伝えられ「黒門」と呼ばれていたことに因んで、新山門もまた今日的意匠による黒い門として復興いたしました。
・・・一心寺は「ミュージアム」であり「シアター」もあります。
※神戸峰男(1944~)
昭和19年8月10日生まれ。清水多嘉示、木下繁に師事。昭和45年「裸婦像」で日展中日賞、のち49年「裸婦」で日本彫塑展日彫賞、53年「裸婦―伸びゆく」で日展特選など受賞をかさねる。63年名古屋芸大教授。平成18年「長風」で日展文部科学大臣賞。20年「朝」で芸術院賞。24年芸術院会員。日展理事。岐阜県出身。武蔵野美大卒。