ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・とてもお世話になった大先輩の個展が上六であるということなので、大阪FW第2弾を計画して出かけました。


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・・・もう80歳を越えるというのに、とてもお元気です。やはりアートの力ではないかと思います。


ろく2


◆近鉄百貨店上本町店

543-8543大阪市天王寺区上本町6-1-5506-6775-1111


・・・ギャラリーで思い出話に花を咲かせていると、羽曳野市・誉田中学校の建替工事で「円形校舎」が無くなるという話題になり、清風学園の「円形校舎」もまもなく無くなるという話が出たものですから、さっそく見に行くことにしました。


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清風学園

543-0031大阪市天王寺区石ケ辻町12-1606-6771-5757

高野山真言宗の宗門関連校であり、仏教を中心とした宗教教育を実践している。

創立者は平岡宕峯。1932年に大阪電気学校の校長に創立者が赴任。1937年に開設された、大阪電気学校堺分校(浅香山電気工業学校)が直接の前身である。1949年に当時の大阪府知事赤間文三により、幕末の長州藩の藩政改革者村田清風にちなんで「清風」と名づけられた。創設者の平岡宕峯は当時名だたる企業改革の仕掛け人であったため、村田清風の名前を頂いた。現在、子の平岡英信が理事長。孫の平岡宏一が校長・専務理事をしており、創業者一族による同族経営である。

昭和32年3月4階建校舎落成(現、円形校舎)

2016年全面完成の予定で、新校舎が建設される。まず、事務所棟を取り壊し新校舎の東側を作り、円形校舎及び西校舎から中学校を移転させる。その後円形校舎等を撤去し、校舎の西側を作って全体を完成させる。ここには食堂(従来は学校食堂がなかった)や大教室が作られるほか、円形校舎から器械体操室が移転する。屋上にはテニスコートが作られる。

五輪の「伝統校」清風高校獲得メダル31個

五輪の「伝統校」といえる私立高校がある。大阪市天王寺区の清風。1968年のメキシコ以来40年間、日本がボイコットしたモスクワを除くすべての五輪の体操競技に、出身選手を送り出してきた。獲得したメダルは計31個にのぼる。円形をした4階建て校舎の最上階が体操部の体育館だ。直径20メートルほどの狭い練習場から、メキシコ、ミュンヘン、モントリオールで団体3連覇を果たした監物永三氏(60)ら14人の五輪代表が巣立った。獲得したメダルは金9、銀6、銅16。北京五輪にも、アテネで団体金をとった鹿島丈博選手(28)が2大会連続で出場する。選手の大半は自宅からの通学生で、全国から選手をかき集めているわけではない。それでなぜ、これだけの人材が輩出するのか。清風出身で北京五輪の男子監督を務める具志堅幸司氏(51)は「清風の選手は、強くなるために何をするべきか、自分で考え、行動することを身につけるから卒業後も伸びる」と話す。練習中、監督からの細かな技術指導はほとんどない。先輩の演技を見て、部員同士が教え合い、技術を磨いていくのが「清風流」なのだという。現体操部監督の吉田和史さん(46)は「『大きい』『美しい』という体操の原点を追求した基礎練習」をあげる。高校総体レベルでは点数に加味されない技のダイナミックさや完成度を求め、「世界に通用する体操」を常に意識した練習をしているという。例えばあん馬では、天井からつるしたバケツに足先を突っ込んで旋回する練習を続ける。旋回のイメージをつかむための初心者向けの練習だが、鹿島選手も高校卒業まで繰り返した。清風中学では、倒立の練習の際、両足のつま先の間に10円玉をはさみ、ピンと伸びた美しい姿勢を保つ訓練もする。北京五輪では、鹿島選手のほかに柔道の石井慧選手(21)、マラソンの大崎悟史選手(32)、セーリングの松永鉄也選手(29)も清風出身だ。高校の近くにある「手作りパンの店 木村屋」の浅井アツ子さん(63)は40年近く店頭に立ち、歴代のメダリストら運動部員の素顔に触れてきた。「具志堅君はいつも1人で考え事をしながらパンを食べていた。タケちゃん(鹿島選手)はおとなしかった」。最も印象に残っているのは、現役高校生としてソウル五輪に出た池谷幸雄、西川大輔の両選手。2人はソウル五輪後、「おばちゃん、メダルとったで」と報告にきた。浅井さんは「みんなけがをせんよう、目いっぱい頑張ってほしい」とエールを送る。2008年7月26日

池谷直樹さん

1973年12月1日生まれ。大阪府出身。小学3年の時から「マック体操クラブ」に入門し体操を始める。兄・池谷幸雄(元オリンピック日本代表)と共に厳しい指導を受け、その後、体操の名門、清風中学、清風高校(大阪市)、日本体育大学に進学。1995年の全日本世界選手権で総合9位、全日本学生選手権で総合3位に。そして卒業後の97年 、全日本社会人選手権では総合4位、鉄棒種目では優勝、全日本選手権でも鉄棒種目で優勝の記録を残す。現役引退後はテレビのスポーツ番組「筋肉番付」や「スポーツマンNo.1決定戦」などで活躍。数々の優勝を果たし、モンスターBOX(跳び箱)の世界記録保持者(23段)でもある。また02年からは「ミュージカル・ピーターパン」や「マッスル・ミュージカル」にも出演、緊張感あふれるパワフルな舞台を見せる。

西川大輔さん

1970年6月2日生まれ。大阪府大阪市東淀川区出身。4歳のときから、マック体操クラブにて体操を始める。清風高等学校在学中の1987年(昭和62年)頃より頭角を現し、同学年の池谷幸雄とともに注目を集める。翌1988年(昭和63年)のソウル五輪選考会(兼NHK杯)で個人総合優勝。五輪本番、団体総合の鞍馬では10点満点を出す等、団体銅メダル獲得に大きく貢献した。池谷と共に高校生としては日本体操史上初の五輪代表で「清風コンビ」「高校生コンビ」等として一世を風靡。同年の国体をはじめ国内大会には観客が殺到したり、二人の特集ビデオが発売される等、絶大な人気を集めた。日本大学入学後も、1990年(平成2年)-1991年(平成3年)にかけ全日本選手権で個人総合・床運動・あん馬でそれぞれ二連覇を達成した。1992年(平成4年)のバルセロナ五輪でも団体銅メダルを獲得。個人総合はミスもあって決勝には進出できなかった。1996年(平成8年)のアトランタ五輪は選考会で9位に終わり代表の座を逃したが、翌年の世界選手権では選考会で4位(西川ら3名が同点2位)となり、代表に返り咲いた。1997年(平成9年)4月より日本大学高等学校・中学校の講師に、1999年(平成11年)4月より、日本大学講師に就任。指導の傍ら、あえて「引退」せず現役を続行していたが、高難度化の流れに乗れず1999年の全日本選手権では50位にまで沈み、シドニー五輪第二次選考への出場もできなかった。これを機に、競技選手としては事実上引退することとなった。現在は、日本大学文理学部体育学科准教授として体育の実技授業を受け持つ傍ら、体操部のコーチとして後進の指導に当たっている。


・・・私も高校時代「体操部」に所属していたものですから、清風高校の円形校舎「器械体操室」を見学に行ったことがあります。


ろく4


・・・校舎前にある街路樹が「ヤマモモ」で、おじさん2人が熱心に採っておられました。「焼酎漬けにするんや」とおっしゃっていました。細工谷付近は遺跡が発掘されたところで、お地蔵さんがあって案内看板が掲げられているというので探しに行きました。

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細工谷遺跡

543-0032大阪市天王寺区細工谷1

この遺跡は、天王寺区細工谷1丁目において1996年に発見された。全国初の発見となった和同開珎の枝銭や、今まで知られていなかった「百済尼寺」の存在を示す多数の墨書土器や瓦が出土した。また、金属加工に関連した遺物や富本銭、尼の父の名前を記した木簡など、飛鳥時代(7世紀)~奈良時代(8世紀)を中心とする数々の資料が見つかっている。細工谷遺跡で推定されるような古代寺院は、難波宮の南側に点在しており、条坊制が敷かれた「難波京」のようすを考えるうえで重要である。条坊制とは南北の大路と東西の大路を碁盤の目状に組み合わせた都市計画を指します。 現地で自由に見学できるのは、出土品の一部の説明と小さな北向地蔵尊のみ。専門家の手引きによる不定期の見学会も開かれています。

8世紀中ごろの井戸から出土した動物の骨にはネズミ・マイワシなどがあるが、大半はアカガエル属のヤマアカガエル・ツチガエルなどである。この事実から、細工谷遺跡の周辺にはカエルの生息しやすい水辺があったらしいことが判明した。


・・・「かえる友の会」関西支部としては、ぜひともチェックしておかなくてはならないポイントでもあります。