・・・「高島屋史料館」から、今回の「大阪FW」の目的地へ。
◆近松門左衛門の墓/542-0012大阪市中央区谷町8‐1
・・・ガソリンスタンドの横にありましたので、記念に給油しました。
近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地は、越前・福井説と長門・山口説があります)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する。元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。近松は、竹本義太夫や2代目義太夫のために100作を越える浄瑠璃を著す一方で、坂田藤十郎のために20数作の歌舞伎狂言を著している。「曽根崎心中」、「心中天網島」、「女殺油地獄」などの世話物に代表される作品に描かれる人間の姿は今日に通ずる所も多く、伝統芸能や演劇、映画などの中で再創造され、たくさんの人に感動を与え続けている。生前の近松は廣済寺を再興した日昌上人と親交があるだけでなく再興にも尽力し、また晩年は度々足を運んだこともあり、尼崎の墓は、近松門左衛門と後妻・一珠院の比翼墓となっています。
谷町にあるお墓は、ビルとガソリンスタンドの間に挟まれたれた一角に入口があります。ここにあった法妙寺は道路拡張のために大阪府大東市に移転していますが、墓を移転すると国の史跡から外れてしまうので、篤志家の働きかけによってお墓だけ谷町に残されました。なお、近松一族の墓や過去帳などは移転され、谷町にある墓と瓜二つの形状の供養塔があります。後妻の実家が法妙寺の檀家であったようです。1980年(昭和55年)に整備が図られ、国の指定史跡となっています。
◆楠通り「楠大神」/谷町7丁目交差点東側
道路のど真ん中にある祠で、有名な「楠大神」白蛇が坐すといわれます。ここは元「本照寺」の境内ですが、大正10年に街路整備のため市が買収しました。道路にするためこの木を切ろうとすると工事人に怪我・病気が続出、白蛇を見たという人まで現れたため工事人が集まらず、やむなく道の真ん中に残すことになったそうです。戦後大阪に来た進駐軍もこの木を残し、地元の人が祠をつくり注連縄を張りました。通りの名前も楠通りと呼ばれるようになったわけです。
※楠通りに面して『近松門左衛門墓』の案内板があります。日本語と英語の対訳で近松についての解説がなされていますが、この地点からでは近松の墓には入れません。
◆鎌八幡(円珠庵)
543-0018大阪市天王寺区空清町4-2/06-6761-3691
遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で、そのわきに一本の榎の霊木があり、人々の信仰を集めていた。下って、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に陣所を構えたが、この信仰を聞き伝えて、鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげたと伝えられている。江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に、国文学者として有名な高僧契沖阿闍梨が居を定め、円珠庵と称した。契沖は、ここで万葉代匠記や和字正鑑要略を著し、国文学の研究に専念すると同時に、深く鎌八幡を信仰した。この頃から「鎌八幡」は「祈とう寺」として、人々の信仰が広まった。大正11年に、境内全域が大阪市では最初の国の史跡指定を受けたが、境内の大部分は、戦災で損壊したあと復興したものである。その間、霊木は蘇生し、絶えなる信仰と多くの霊験が得られている。
※悪縁断/病根断ち(頭痛、ぜんそく、癪、痔、等々諸病平癒)縁切り(因縁断ち、悪霊断ち、厄払い、悪運断ち他)心願成就(合格祈願、学業成就等)
・・・「森ノ宮」には、大阪の老舗である森下仁丹・京セラミタそしてサクラクレパスがあります。