ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「おかげ横丁」は、とても賑わっています。


◆【山口誓子俳句館・徳力富吉郎版画館】◆

516-0025三重県伊勢市宇治中之切町520596-23-8828

1階は京都の絵所に生まれ、多色刷り版画の第1人者として名高い徳力富吉郎先生の版画館。1階奥突き当たりの蔵の入口を入れば山口誓子の俳句館です。伊賀上野にある「清雅堂」という骨董屋がモデルの建物からは、軒先が低く母屋に蔵がついた伊賀地方独特の商家の様子がうかがえます。「山口誓子俳句館」では投句箱を設け、毎月入選句を掲示しています。


よこ1


【参考】山口誓子記念館

657-8501神戸市灘区六甲台町1-1百年記念館(神大会館)1階078-803-5393

神戸大学百年記念館東側大阪湾を一望できる絶好の位置にある数寄屋造りの建物です。近代俳句に大きな足跡を残した山口誓子(本名新比古)(1901年11月3日1994年3月26日)の関連資料及び蔵書等を保管展示しかつ俳句関係資料を収集して俳句俳諧文学を中心とする国文学研究の振興日本文化の継承発展及び海外との学術交流に広く寄与することを目的とする施設です。山口誓子は旧制三高東京帝大出身であり神戸大学とは直接の縁はありません。しかし夫人縁者に神戸大学出身者が多くまた自身も西宮市在住であることかつ神戸大学が優れた俳句文学研究の場になりうることを見込み預金居宅敷地著作権など遺産全てを神戸大学に寄附していただきました。また誓子を生涯支えた妻波津女(旧姓浅井,本名梅子)も俳人でありその遺産も併せて神戸大学に寄附され誓子の遺産と併せて施設を支える基金となっています。山口誓子記念館は寄附された遺産を元に2001年1月に完成しました。1995年1月の阪神淡路大震災で倒壊した旧誓子邸母屋の面影をほぼ忠実に復元したもので文学博物館的施設でありかつ 留学生や外国からの客人が日本文化を体験できる場としての性格をもちます。茶の湯の施設などはもとの誓子邸にはなかったものですがそのような目的にそって付加されたものです。句会や茶会などに利用することもできます。


よこ2


【参考】京都版画館版元まつ九

606-8357京都市左京区聖護院蓮華蔵町33075-761-0374

徳力家は代々西本願寺絵所の家系。初代・二代三代の作は国宝として現存、富吉郎は十二代目。現京都市立芸術大学を主席で卒業後、土田麦僊に師事。国展にて樗牛賞・国画賞を始め、多くの賞に輝く。麦僊亡き後かねてより興味を持った木版画製作に取り組み、平塚運一・棟方志功らと「版」を発行。京版画に近代感覚を加味し徳力版画を生み版画界第一人者となる。館内には九八年の画業生活の内で参考として集めた古版画、富吉郎の生み出した 作品展示、若い版画達の育成を願い公開いたしております。平安時代仏教と共に誕生した京版画は江戸期には庶民の物として歌舞伎や風景画、浮世絵を生み出します。製作においては、絵師、彫師、摺師を筆頭に紙屋、板屋等を従えて版画を製作する職人衆が制度化され「版元」と証し現代の出版社の様な組織が生まれました。徳力富吉郎が起こした「版元まつ九」は西欧の印刷技術が導入される中で明治・大正・昭和を経て平成への京版画の伝承と後継者を育成するなど研究を重ね数少ない版元として多くの期待と責任を担い、今日では新版製作を始め古画の復元、文具類製作、版より生まれるインテリア等も試しております。



神宮会館

516-0025三重県伊勢市宇治中之切町1520596-22-0001

伊勢神宮崇敬会が運営するお伊勢まいりの宿です。第59回神宮式年遷宮の附帯事業として、参宮者の便宜を図り神宮崇敬者の教化を目的に昭和27年(1952)秋に竣工しました。以来、神宮に参拝される方々の『参宮の宿』として多くの方々に親しまれご利用いただいております。宿泊施設は、本館(平成4年9月竣工)・西館(昭和48年6月竣工)・会議室・大講堂があり、敷地内には、神宮相撲場・神宮弓道場・神宮ばら園があり各種会合・研修・スポーツ合宿などにもご利用いただいております。



よこ3


神宮ばら園

神宮参拝者や神宮会館利用者に心の潤いを与え、神宮外苑の名所とするため三重県ばら会の献身的な助勢を得て、昭和62年10月に開園しました。春と秋にはバラ花を神宮に奉納して、三重ばら会南勢支部のばら展が開催され、多くの方々が来園されます。神宮ばら園には、俳祖・荒木田守武の句碑、中川経高の歌碑、如雪園の雅名を刻んだ石碑が建っています。これれらをゆっくり鑑賞していただこうと、ばら園設立20周年を機に高台の緑陰に集め、「碑林」と名付けました。百花繚乱のばら園を鑑賞される際は、ぜひ碑林にも立ち寄られて、神宮神主の風雅にもふれていただきたいと思います。

展示コーナー

神宮会館を利用される多くの方々に、神宮や遷宮についての知識と理解を深めていただこうと展示コーナーを充実させました。本館と西館を結ぶ渡り廊下の西側には、山口祭から遷御まで、遷宮諸祭のすべてが写真パネルと解説文で紹介されています。又、西館ロビーの一画には神代から神宮御鎮座にいたる神話、神さまの「衣・食・住」など紹介しております。


よこ4


◆猿田彦神社

516-0026三重県伊勢市宇治浦田2-1-100596-22-2554

猿田彦大神は、ものごとの最初に御出現になり万事最も善い方へ“おみちび き”になる大神で、古事記、日本書紀などにも「国初のみぎり天孫をこの国土 に御啓行(みちひらき)になられた」と伝えられています。大神は天孫をおみちびきの後、伊勢の地を本拠として国土の開拓を指導され、垂仁天皇の御代に皇女倭姫命が神宮鎮座の地を求めて諸国を巡歴されたときに、大神の御裔(みすえ)の大田命(おおたのみこと)が祖神、猿田彦大神と同じく御先導され、五十鈴川 の川上一帯の霊地を御献上、伊勢の神宮の御創建に尽くされました。大神の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、以来、永く玉串大内人(たまくしおおうち んど)という特殊な職掌に任ぜられ、伊勢の神宮に奉仕してきました。大神の 御神徳を仰ぐ崇敬者は全国に広く、方位除、地祭、土地開発、開業、災除、家 業繁栄、交通安全、病気平癒、開運などの御祈祷が連日行われています。


よこ5


旧林崎文庫

516-0024三重県伊勢市宇治今在家町0596-24-1111

伊勢神宮内宮の書庫兼学問所で前身である岡田文庫は南北朝時代に荒木田経延によって創設されました。当初は宇治郷岡田村にありましたが正平2年(1347)に火災により焼失しています。貞享3年(1686)、伊勢神宮外宮の豊宮崎文庫に触発され、今在家町丸山に内宮文庫が創設されました。内宮文庫は低地にあった為、五十鈴川の氾濫で度々被害にあい、元禄3年(1690)に林崎に移し林崎文庫と呼ばれるようになります。さらに文政6年(1823)に後方の高台に移転しています。明治6年(1873)、神宮文庫が創設されると蔵書が移され役割を終え、昭和29年(1954)に国指定史跡に指定されています。


神宮文庫

516-0016三重県伊勢市神田久志本町17110596-22-2737

古来、内宮・外宮の域内には文殿(ぶんでん)や神庫(しんこ)という記録文書を納める施設があり、古儀を重んじる神主の研究調査に利用されていました。
江戸時代に入り、慶安元年(1648)には、外宮神主出口延佳等の努力により、外宮の東隣に豊宮崎文庫が創設されました。また、貞享3年(1686)には、宇治会合年寄等の発議により内宮文庫が立てられましたが、元禄3年(1690)に内宮近くの林崎の地に移され、林崎文庫と改称されました。両文庫は、図書館であると共に神職子弟の教育機関でもありました。やがて、明治4年(1871)の神宮改正にともない、両文庫をはじめ文殿・神庫等の蔵書を合わせて設立されたのが神宮文庫です。現在の建物は、大正14年(1925)8月に建てられた和洋折衷の建造物で、閲覧室や事務室などを配しています。

黒門

御幸道路沿いに建つケヤキ造の大きな門は「神宮文庫の黒門」の名で親しまれています。江戸時代に活躍した御師福島御塩焼大夫の屋敷の門(安永9年<1780>建設)を、昭和10年に移築したものです。昭和33年(1958)年伊勢市の文化財に指定されました。