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・・・「慈光院」からの帰り道、


ほう1


・・・何度も横目に通り過ぎていたお寺です。


◆【法起寺】◆

636-0102奈良県生駒郡斑鳩町岡本18730745-75-5559


ほう2


法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれています。この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。


・・・数名の方がスケッチしておられました。法隆寺のような大規模寺院ではありませんので、小さくて静かなので写生にもってこいなのかもしれません。


ほう3


その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年(685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなりました。 同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったと推測されています。当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見られ、奈良時代には相当栄えていたようですが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微しましたが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されています。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔のみを残すのみであったといわれています。


・・・三重塔は、なんだか可愛いですね。


ほう4


その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍とその弟子たちは、延宝6年(1678)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄7年(1694)に講堂を再建、文久3年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられています。昭和47年(1972)には三重塔の解体修理に着手し、50年に完成したのに続いて、53年には講堂の修理を行い、57年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設しています。天平時代の記録に池後尼寺とあることから、尼寺として建立されたことがわかります。伽藍配置は、塔を東に金堂を西に配したもので、法隆寺西院や法輪寺とは位置が逆転しており、法起寺式と呼ばれています。



三重塔

この建物は、現存最古の三重塔で、創建は慶雲3年(708)です。建立後は、再三にわたる大修理が行われたため、建立当初の形式が明らかでないところもありますが、昭和45年から50年にかけての解体修理の際、それまでの研究成果を踏まえた復元がなされ、現在に至っています。初重内部は土間で四天柱と八角の心柱を立て、四天柱の上に肘木と斗を組んでいますが、二重以上は骨組がいっぱいに組まれています。初重にある仏壇は近世のもので、法隆寺の五重塔のような須弥山が作られた形跡や古い仏壇の痕跡がないので、当初の状況は明らかではありません。


・・・私もスケッチ目線で景色を楽しみました。


ほう5


・・・池のスイレン、そしてカメもいい感じです。ゆったりと全身に春を感じた一日でした。