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・・・「ぼたんまつり」の最終日に、


はせ1


・・・門前に「赤丸ポスト」を発見、これだけで「来て良かった」と思います。


はせ2


◆【長谷寺】◆

633-0112奈良県桜井市初瀬731-10744-47-7001

真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山 神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三 所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。大和伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。大和七福八宝めぐり(三輪明神長谷寺、信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院おふさ観音談山神社久米寺)の一つに数えられる。


登廊重要文化財平安時代の長歴三年(1039)に春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒の御礼に造ったもので、百八間、三九九段、上中下の三廊に分かれてる。下、中廊は明治二十七年(1894)再建で、風雅な長谷型の灯籠を吊るしている。


・・・「ぼたん」が目的ではありますが、この「登廊」が素敵です。


はせ3


長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年12月21日定額寺に列せられ、天安2年(858年5月10日三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。


宗宝蔵長谷寺六坊の一つ、清浄院跡地に建つ。春と秋に開扉して長谷寺に伝わる国宝・重要文化財等の宝物公開を行っている。


・・・なかなか充実した内容の「宝物館」でした。


はせ4


長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。長谷寺東大寺華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。


・・・お寺に来たら、やっぱり「お茶」します。


はせ5


本堂国宝小初瀬山中腹の断崖絶壁に懸造り(舞台造)された南面の大殿堂である。正面(内陣)は桁行(間口)の柱間九間、梁間(奥行)同五間、入母屋造本瓦葺で、また礼堂(外陣)は正堂よりやや低く、桁行九間、梁間四間、正面入母屋造本瓦葺。



・・・本堂に入り受付を済ませると、手のひらにお香の粉更に「五色紐」を手首に巻いていただけます。そして、ご本尊にお参りするわけです。この五色紐を付けると、各方面の仏に守護されて、心と体の健康と魔除けの作用があると信じられているそうです。まず目に飛び込んでくるの10メートルの立像の巨大な足しかも触れる事ができるのです。垂直に視線をに移していくと、ご本尊の全容が見えるのですが、近くてのけぞってしまいそうなほどの距離感と迫力です。右手に錫杖、左手に水瓶を持っているのですが、ご本尊の周囲はすぐ壁狭い空間です。濃密な空間の中でご本尊と対峙でき、足にも直接触れる事ができるのは、この長谷寺だけではないでしょうか。