ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「宇治川」を渡ります。


うじ1


◆宇治川

日本最大の湖「琵琶湖」を源とする淀川は、その上流部では瀬田川、中流部では宇治川と呼ばれ、京都府・大阪府境界付近で桂川、木津川と合流した後は淀川となり、大阪湾に注ぐ一級河川です。宇治川は淀川の通称であり、天ヶ瀬ダム上流部から桂川、木津川合流部付近までを宇治川といいます。

戦国時代、豊臣秀吉は伏見城の築城資材の運搬水路の水深を保つために巨椋池内の島を結んで堤防を造りました。この堤防は太閤堤と呼ばれており、横大路沼と巨椋池を分離し、その排水をよくする治水効果もあったといわれています。また、この堤防は大和に通じる 巨椋池の変遷街道の役目を果たしており、宇治川左岸に近いところは現在も近鉄京都線の軌道として残っています。また、秀吉は、槇島堤により宇治川と巨椋池を切り離し、城への水運を確保しました。


うじ2


中流部に位置する観月橋は鎌倉時代末期に「桂橋」の名で初めて文献に現れます。この「桂橋」は月見のため、巨椋池に浮かぶ島に向かうのに使われたといわれています。その後、豊臣秀吉により宇治川が付け替えられ、新しい宇治川に架けられた橋は「豊後橋」と名前を変えましたが、その「豊後橋」も幕末の鳥羽、伏見の戦いで焼失しました。明治6年、新橋が完成すると、名称も月にまつわる伝説にちなみ「観月橋」と名付けられました。

塔の島周辺は、平等院等の歴史・文化的遺産に恵まれ、鵜飼いや舟遊びなど多くの観光客に利用されています。紫式部は宇治川の上流石山寺に参籠中「源氏物語」の構想を得、須磨・明石の巻を書いたと伝えられています。その「源氏物語」五十四帖中の後編に出てくる宇治十帖とは、橋姫・椎本・総角・早蕨・宿木・東屋・浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋の十箇所です。宇治橋の中ほど(上流側)に突き出ている「三之間」は、秀吉が茶の水をここから汲ませたと言われています。


うじ3


◆【平等院】◆

611-0021京都府宇治市宇治蓮華1160774-21-2861

ときの権力者、関白藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別業をその子頼通が、永承7年(1052)にこれを仏寺に改め、平等院としました。永承7年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。その翌年の天喜元年(1053)には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。


うじ4


◆【平等院ミュージアム鳳翔館】◆開館2001年

平等院鳳凰堂は、建築・彫刻・絵画・工芸が一体化し、国内では最も密度の高い国宝の集積空間です。さらにその周囲は、国内でも数少ない浄土庭園の遺構がひろがり、建築と庭園が融合したたぐい稀な歴史的環境を今日に伝えています。1965年に竣功した宝物館は、長らく扉絵、鳳凰、梵鐘、雲中供養菩薩像などの国宝物を収蔵・公開するという重要な役割をはたしてきましたが、老朽化が進み、新しく博物館として鳳翔館を開館しました。新しい宝物館は、このすぐれた環境のもと、国宝の美術工芸品を良好な状態に収蔵・公開するとともに、鳳凰堂を中心とした境内環境の一部として整備されます。

うじ5


関白藤原頼通公940年御遠忌・鳳凰堂平成修理落慶記念展

『鳳凰堂の錺り-金色の装い-』平成26年4月19日(土)~9月26日(金)

鳳凰堂は、中堂大棟に鎮座する一対の鳳凰をはじめ、多くの錺金具で華麗に装飾されています。その中で鳳凰についで大きな存在感を誇るのが、翼廊楼閣の棟飾り「露盤宝珠」です。露盤宝珠は、これまで詳細な調査がなされておら ず、いつ頃制作されたのかわかっていませんでした。この度の鳳凰堂平成修理の過程で屋根上から降ろされたのを機に科学調査を行ったところ、これらは平安時代に遡り得る古い部材であることが判明しました。露盤宝珠は青銅製の鋳物で表面にはわずかに鍍金が残っています。本展では、この露盤宝珠の一部を特別公開します。本年は平等院を創建した藤原頼通公940年御遠忌にあたります。この記念すべき年に鳳凰堂は平成修理を終え、平安時代の色彩が甦りました。これに併せて、金色の輝きを取り戻した鳳凰堂の錺金具にも是非ご注目ください。