・・・宮島「赤丸ポスト」のつづきです。
●熊田商店前/広島県廿日市市宮島町幸町西浜465
●岩村もみじ屋前/広島県廿日市市宮島町中江町304-1
●厳島神社宝物館前/広島県廿日市市宮島町102
●宮島歴史民俗資料館内/広島県廿日市市宮島町57
●大聖院前/広島県廿日市市宮島町(滝町)215
●三翁神社よこ土産物店/広島県廿日市市宮島町1-5
●NTT西日本宮島電話交換所前/広島県廿日市市宮島町北之町西表
●旅館岩惣前/広島県廿日市市宮島町南町
・・・帰宅してから調べますと、宮島には後2本ほど「赤丸ポスト」があることがわかりました。また行く機会があるかな?
◆龍髯の松
五重塔があるところから名付けられた塔の岡に「龍髯の松」と呼ばれる樹齢二百年以上を誇るクロマツがあります。二枝を伸ばしながら手入れされ、龍のほおひげに似ていることから名付けられたそうです。「ひげ」には髭(くちひげ)・鬚(あごひげ)・髯(もみあげ)の3つの漢字があります。
◆金鳥居の辻
五重塔がある塔の岡のふもと幸町の辺りは「金鳥居の辻」と呼ばれていたそうです。「金鳥居」という名の由来は、ここに鉄製の鳥居(の柱)があったからとのこと。過去に完成された鳥居があったのか、未完のまま柱だけだったのかは不明です。
◆誓真釣井
江戸時代の宮島の島民の生活に重要な影響を与えたのが誓真(せいしん)という僧侶です。誓真は自らの修行の傍ら、道路や水路を整備し、島民の生活用水のために井戸を掘りました。その井戸は全部で10箇所、そのうち現在4箇所が残っており、「誓真釣井(せいしんつるい)」として、島民の人々に親しまれています。そのひとつ、宮島桟橋のすぐ前にある港町の井戸の側には「誓真地蔵」が祀られています。
◆棚守屋敷跡
厳島神社の神職として棚守職をつとめた野坂家の屋敷跡です。厳島神社の鎮座にあずかった佐伯氏の子孫には、平清盛の信任を受けて社殿の大造営をなしとげた佐伯景弘などがいましたが、鎌倉時代には関東の御家人であった藤原親実が神主職となり子孫として続き、佐伯氏は棚守職を世襲して野坂氏を称し、左舞師を兼ねました。大内義隆、毛利元就と親交のあった野坂房顕、江戸時代の末に舞楽の抜頭の秘曲を天王寺怜人に伝授した野坂元貞などは著名です。屋敷のあったこの付近は棚守屋敷に続き祝師、上卿などの屋敷が並んでいました。棚守屋敷跡は現代の家が建っていますが、石段が残っていて往事を偲ぶことが出来ます。
◆林家住宅
大聖院に続くなだらかな傾斜地の参道沿いの高台にある。このあたりは、厳島神社の社殿の背後地にあたり、今日滝町と呼ばれているが、元禄時代に著された『厳島絵図』に、既に現在の町並みに近い形が認められ、祠官・社僧の居住区となっていた。林家は、厳島神社のいわゆる宮島三家である棚守・上卿・祝師のうち、代々上卿職を継ぐ家で、そのため土地の人は、林家住宅のことを上卿屋敷と呼んでいる。かつては林家も対岸の廿日市の方に住み宮島へ渡っていたようだが、毛利元就の頃、島に定住するようになったと伝えられている。屋敷地は東西約48メートル、南北約19メートルの長方形の敷地で、西南に約2.7メートルの石垣を積み上げ、中央部の石段を登ると両袖付きの薬王門式の表門があり、門をくぐって進むと母屋に至る。母屋は切妻造りで、西妻に千鳥破風を配した屋根勾配の穏やかな建物である。奥行が長い武家屋敷風の趣を持った住宅で、南面に廻り濡縁を設け、池のまわりに木々を配し、背後の山の自然をいかした築山は、建物とよくマッチしており、南面の各部屋からの景観を考慮して造られている。
・・・やっぱり「一泊」すると違いますねえ。とても充実した宮島旅行となりました。