・・・もちろん、「京都御所」や「承天閣美術館」も京都訪問の大きな理由だったのですが、もうひとつどうしても訪問したいミュージアムがあったのです。
・・・JR京都駅から西へと歩いて行きますと、
◆【京都市人権資料展示施設「柳原銀行記念資料館」】◆
600-8206京都市下京区下之町6-3/075-371-0295
閉館日:月曜日、火曜日、祝・休日、年末年始
柳原銀行は,柳原町(現崇仁地区)の町長であった明石民蔵ら地元有志によって、明治32年(1899年)に同和地区内に認可、設立された唯一の銀行であり、地元産業の振興や教育の向上に多大な貢献をしました。大正期には、山城銀行と改称し営業を拡大しましたが、金融恐慌の影響を受け昭和2年に閉店し、その後、建物は、商店や借家として平成6年まで使用されました。当時、建物は河原町通・塩小路通の南西角に位置していましたが、ここが崇仁地区を南北に縦断する国道24号線の拡幅工事場所となり、昭和61年に買収され取り壊すこととなりました。これを契機に、地元まちづくりのシンボルとして建物の保存運動が盛り上がり、「保存に関するシンポジュウム」の開催や「柳原銀行とその時代」の発刊等、様々な取組が行われました。また、平成元年に実施した京都市が行った建物調査において、当銀行建築物は設計密度の高い明治後期の洋風木造建築物であることが判明し、平成6年に京都市登録有形文化財(市登建23)となりました。このような経過の中、建築保存に対する地元の熱意と京都市の取組があいまって、平成6年度から建物の移築、復元、保存事業に着手し、この度、平成9年11月28日から京都市崇仁隣保館資料室『柳原銀行記念資料館』として開所しました。当施設は建物内に展示室を設け、同和地区関係の歴史、文化、生活資料等を中心とした展示を通して、広く市民に対し同和問題への正しい理解と人権意識の高揚を図る啓発拠点施設として活用を図ります。当建築物は、棟札から明治40年の竣工と判断されます。京都に現存する銀行建築物のなかでは、明治39年の旧日本銀行京都支店(現、京都府京都文化博物館)と第一勧業銀行京都支店が最も古く、これらに次ぐものであり、木造の銀行建築としては全国でも現存する最古のひとつと考えられます。数少ない明治期の銀行建築遺構であり、また建築設計密度の高い明治後期の洋風木造建築物であることから、平成6年に京都市登録有形文化財(市登建23)にも指定されています。
上棟式の際の棟札が保存されています。棟札とは、上棟や屋根葺き替えなどにあたって、板もしくは角材に、日付と工事関係者名あるいは祈願文などを記して、棟木や束柱に釘止めするものです。それによると、この建物の上棟は1907年(明治40)6月です。したがって竣工はその少しあと、明治40年秋か暮れと考えられます。また、棟札には、設計者として「吉川吉之助」、大工として「嶽山亀吉」の名が記されています。吉川吉之助は明治40年11月設立の稲荷調帯株式会社の専務取締役を務めた吉川吉之助と同一人物と思われますが、経歴は明らかではありません。また同人がこのほかにどのような建築活動に関与したかも、これまでのところ判っていません。京都に建設された洋風の銀行建築としては、1904年(明治37)の三井銀行、翌年の住友銀行が早いのですが、現存するものは1906年(明治39)竣工の旧日本銀行京都支店(現・京都文化博物館)と同年の第一勧業銀行京都支店がもっとも古く、当建築はこれらに次ぐものです。全国的に見ても、明治期の銀行建築の遺構は20棟にも満たないのです。地場銀行の建築は特に少なく、この点で、当建築はきわめて貴重な存在です。設計者の吉川吉之助は西洋建築を体系的に学んだ者ではないと思われ、意匠的な見地からは細部装飾の変化が少ないといった限界も感じられますが、全体として要所を押さえた堅実な設計です。特に、階段手すり、あるいは1階天井のデザインは充実していて、設計者の入念な研究がうかがえます。近代の建築活動を見る際には、どうしても中央から来る設計者の動向を重視しがちですが、当建築は、地域で建築文化が培われていたことを教えてくれる例として、非常に意味深いものです。
・・・スタッフの方から、様々なお話をうかがうことができました。「水平社創立大会」の資料については、2部見つかったので奈良「水平社博物館」にも展示してもらっているということでした。案内看板も、つい最近になって整備されたこと、最大の情報は「京都芸大」がこの地区に移転することが決まったという話です。
◆【京都市立芸術大学】◆
610-1197京都市西京区大枝沓掛町13-6/075-332-0709
「京都市立芸術大学」は、明治13年に創立された「京都府画学校」を起源に持ち、昭和25年に大学として創立。当初のキャンパスは東山区の今熊野と左京区の聖護院にあったが、キャンパスの統合などを理由に、昭和55年に西京区の大枝沓掛町にキャンパスを移転し、現在に至っている。しかしながら、開学130年記念に策定された「整備・改革基本計画」において、キャンパスの街中への全面移転の方針が打ち出された。
●京都市立芸術大学の崇仁地域への移転整備方針の決定について
本学におきましては、西京区の皆様をはじめ京都市民の皆様の御理解・御協力のもと、公立の総合芸術大学として着実な発展を遂げてまいりました。しかしながら、現在地に移転してから30余年が経過し、現在、本学の施設は、様々な課題を抱えております。これらの課題を解消し、本学が京都のまちとともに発展していくことを目指し、学内で検討を重ね、平成25年3月28日に京都市役所におきまして、私から門川大作京都市長に対して、「JR京都駅東側に位置する崇仁地域へ本学を移転・整備すること、そして、移転後の大学跡地について洛西地域に資する活用を検討すること」などの要望をとりまとめ提出致しました。その後、京都市において、京都全体のまちづくり、本学の発展など、様々な角度から検討が行われ、平成26年1月6日、門川大作京都市長が、本学の要望に応え、本学を崇仁地域に移転整備する方針を決定したことを発表されました。今後、京都市とともに移転整備の基本的な方向性を検討し、構想として取りまとめてまいりますが、京都市から、移転先である崇仁地域のまちづくりの進捗状況を踏まえると、新キャンパスの移転完成は今後10年程度はかかるとの見込みが示されています。本学では、現在の大学施設の機能の維持につきましても京都市に要望しており、移転整備が実現するまでの間、市との連携のもと、できる限りの整備を行ってまいります。今後とも、学生の皆様、保護者の皆様、更には京都市民の皆様が誇りに思い、世界にも評価される「京都市立芸術大学」となるよう取り組んで参ります。(公立大学法人京都市立芸術大学・理事長 建畠晢)
・・・懐かしい岡林信康の「チューリップのアップリケ」のことも展示解説されていました。
●京都市立芸大、10年後に移転/市が計画発表
京都市は2014年1月6日、西京区の市立芸術大を下京区のJR京都駅東側にある崇仁地域に移転させる計画を発表した。元崇仁小の活用や市営住宅の移転などで3万8千平方メートルの用地確保にめどが立ったためで、2014年度に移転構想をまとめ、10年後の移転完了を目指す。市立芸術大の移転をめぐっては、大学側が昨年3月、施設が古く手狭になっていることなどを理由に、利便性が高い崇仁地域への移転を求める要望書を市に提出した。その後、崇仁地域の住民でつくる崇仁まちづくり推進委員会も地域活性化の核として移転の推進を市に要請していた。市の計画によると、移転予定地は川端町の元崇仁小や下之町の市営住宅団地、市立保育所など市有地が大部分を占め、河原町通を挟んで塩小路通の南側一帯。民有地約700平方メートルも買収する。移転予定地内にある下京地域体育館と柳原銀行記念資料館は残す。移転予定地内の市営住宅は7棟(262戸)あり、入居中の176世帯は市が近くに建て替える市営住宅に移るよう求める。崇仁まちづくり推進委員会など地元組織は移転する意向を市に伝えている。崇仁地域では、市が1953年から住環境の改善事業を進めてきた。国の補助金を受けて用地を確保し、市営住宅を建設したが、少子高齢化や域外への人口流出が止まらず、60年に9千人を超えていた人口は約1600人にまで減少。2010年には専門家や地元住民らでつくる委員会が大学や商業施設などを誘致する方向性を打ち出していた。一方、西京区の大学周辺地域では移転の影響が懸念されるため、市は住民らと14年度に協議会を立ち上げ、活性化策の検討する。市立芸術大は1880年開学の府画学校が前身で、1950年に市が移管を受け、69年に現大学名に改称した。市営地下鉄の洛西延伸を見越し、80年に現在地に移転した。学生・教職員数は大学院を含め約1200人。門川大作市長は記者会見で「京都駅に近い好立地で市民や観光客が音楽を楽しむ拠点となり、インパクトの大きさは計り知れない」と述べた。
・・・もうひとつの京都。やっぱり来て良かった。