ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・「粉河寺」は、とても見所が多いです。


こか1


童男堂・出現池

参道の北側やや奥まった所に、本坊に接近して「童男堂」が建てられている。延宝7年(1679年)の建立とされ、千手千眼観世音が姿を変えたといわれる童男大士が本尊として祀られている。「童男堂」の東側の土塀にとり付けられた格子塀を通して、千手千眼観世音の化身といわれる「童男大士」の石像を見ることが出来る。石像が格子塀から離れた位置にあるため、はっきりとはわからないが全体的に柔和な印象を受ける。童男大士石像の左側には、千手観音像を安置した小さい三角堂が池の上に建てられている。「童男堂」は和歌山県指定文化財になっている。童男大士石像の傍には「出現池」と名付けられた池がある。童男大士は柳の枝を手に持ち、白馬に乗ってこの池より現れたと伝えられている。童男大士は病気平癒の霊験のあらたかな仏として知られており、祈願し成就すれば、祈願した人はこの池に鯉を放す風習があるらしい。


こか2


・・・立派なサクラです。


こか3


粉河寺庭園

国指定の名勝。本堂の擁壁を兼ねた前庭は、豪壮な石組みに植栽を合わせた座視式の枯山水蓬莱庭園である。桃山時代・上田宗箇の作庭とされる先例のない様式。


こか4


◆粉河産土神社(たのもしの宮)

649-6531紀の川市粉河2788番地0736-73-2415

当神社は宝亀年間(770)大伴氏が粉河寺を創始するに際し、鎌垣庄内各村の氏神を勧請して祀るのに始まり、現在は粉河郷の総社である。当国藩主累代の崇信を得て、年々の祭礼には1,000人扶持を下賜されていた。平安・鎌倉以来朝家公郷の信仰厚く、正暦2年11月28日從五位上左小辨藤原朝臣説教、正六位上右小史物部宿弥並に保延4年3月25日正四位下左近衛中将兼美作介藤原朝臣公能、久安2年4月29日主典代兼播摩権介皇后宮大夫大江朝臣等の諸公郷よりの、『院廰下古文書』等(粉河寺蔵)に、粉河寺鎮守として本社の神徳を宣揚する旨を明記され、且つ大江朝臣の文には粉河寺並びに本社祭神丹生大明神供物の料として、県下海草郡栗栖庄を寄進せらるる旨を明記し、『紀伊続風土記』に記載せられ、今に尚本社祭礼渡御式には、栗栖庄座中より雅児が参列するのである。渡御式は保延年間徳大寺参拝より始まり、藩主の中にも藤堂佐渡守天正年間渡御を再興せられ、又現在渡御用神具は藩主徳川氏の寄附による等の沿革があり、今に鎌垣庄10ヶ村の氏子住民祭礼に参加する。鎌垣庄共有山は当社祭礼並びに修繕料として弘治3年氏子中へ寄附せられたものである。神輿2基は駿州久能山より金銅葵紋付神酒瓶子2対及び長柄提子1基と共に寄進せられたもので、延宝己未7年5月の作である。尚今の水引は天保年間藩主徳川治宝郷より寄進せられたもので、葵紋は大和錦の華麗な物である。粉河祭礼渡御式には旧藩時代、代官をして検分せしめた程格式があって、和歌祭の始まりもこの祭に起用したと『栗栖御記』にある。名物の山車は明神への献燈と『紀伊名所図会』に記され、灯明台と言伝えている、特殊な格恰であり全国でも当社のみと言われヒゲコ山車と分類されている。大正元年旧長田村松井の丹生神社を合祀、同年粉河町東毛の大神社をも合祀、大正8年粉河町粉河天福神社を境内社として合併し、近年には昭和7年、38年、平成3年に正遷宮を執り行い現在の如く整備されたものである。


こか5


・・・孔雀がいます。気さくな神主さんがおられて、明治時代からのお雛様も見せてくださいました。