ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・見所として教えていただいたのは、


ひよ1


・・・なんともユーモラスな狛犬ちゃんです。


日吉神社紀の川市東国分734番

紀伊国分寺本堂の北東約200mの杜叢の中にある。古くは山王権現社と称して紀伊国分寺の鎮守社であった。また、東西両国分村の産土神(現在は紀の川市東国分・岩出市西国分)としてあがめられてきた。本殿は三間社流造、屋根はもと檜皮葺、正面中央に千鳥破風を設け、さらに軒に唐破風をとりつけるなどしていたって派手に造られている。これに呼応するかのように絵様や繰形などの彫物も多用するから、そこから受ける感じはずいぶん賑々しい。さらに柱上部から組物にかけて極彩色を施し軒や縁まわりは紅柄塗と塗分けている。建立年代を直接示す資料はないが、当地方社殿の年代観からは17世紀に入るものとみてよい。桃山時代の雰囲気を色濃く残す江戸時代初期の流造本殿、妻飾り等に特色があり、県内では珍しい形式をもった建造物である。


ひよ2


・・・珍しい木造の「狛犬」や「ゾウ」もいました。


ひよ3


・・・ついサクラに誘われて、


◆粉河寺◆

649-6531紀の川市粉河27870736-73-4830

奈良時代末宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)をかなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去った。翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられている。草創時この方、粉河寺は多くの人達の信仰をうけて繁栄し、鎌倉時代には七堂伽藍、五百五十ヶ坊、東西南北各々四キロ余の広大な境内地と寺領四万余石を有していたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉の兵乱に遭遇し、偉容を誇った堂塔伽藍と多くの寺宝を焼失した。その後、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって、江戸時代中期から後期に現存の諸堂が完成した。


ひよ4


旧南丘家住宅

粉河寺の大門をくぐり、みやげもの屋の先で橋を渡り、右回りに長屋川沿いを少し下ると、江戸時代後期に建てられたという、紀州藩御鷹役人の 「旧南丘家住宅」がある。このあたりは、江戸時代紀州藩主の鷹狩に関係した藩士たちの居住地であったとのこと。2階は白漆喰に虫籠窓、1階座敷側に出格子、間口1.5間の玄関を備え、その南側に棟門があって勝手口・土間へと続くなど、格式の高い構造になっている。


ひよ5


・・・最高の季節です。