・・・「吉村家住宅」のつづきです。
屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。これを高塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいう。上層農家の家格を示すものである。
戦前の1937年(昭和12年)8月25日に、主屋が国の重要文化財に指定された(当時は国宝と称されていた)。民家としては、日本で初めてのことであった。
その後1965年(昭和40年)5月29日に表門と土蔵、附(つけたり)指定として土塀と中門が、1979年(昭和54年)2月3日に宅地、山林、溜池、附指定として古図2枚がそれぞれ追加指定された。
●主屋
建築年代:江戸時代前期(17世紀前半建築、18世紀改築)
桁行41.2m、梁間11.4m、切妻造(大和棟造り片入母屋)、茅葺及び本瓦葺、四面庇付、本瓦、こけら葺及び桟瓦葺、玄関附属、こけら葺
●表門
建築年代:江戸時代後期(寛政10年(1798年))
長屋門、桁行18.0m、梁間4.0m、入母屋造、茅葺
●土蔵
建築年代:江戸時代後期(18世紀前半)
土蔵造、桁行11.9m、梁間4.0m、切妻造、西面庇及び制札場附属、本瓦葺
・・・何度も何度も訪問して、新たに気付くことが多くあります。
【参考】
1.日本最古の金網(亀甲金網)がいつ頃から造られたかは不明ですが、金網が使用されて残存しているものとしては、大坂夏の陣の頃、1615年(元和元年)に建てられた吉村邸(重要文化財)の納屋の窓に銅製の亀甲金網が使われ、これが最も古いのではないかとされているようです。日本の美術工芸史上、天下太平が浸透した江戸期に本来の機能性から飛躍した武士の甲冑に亀甲金網の見られたりと、約300年前位より金網の存在が確認できます。当時としては銅(金、銀も含め)を中心とした柔らかい金属を槌などで叩きのばして線をつくり、手製で編んでいたようです。
2.一津屋の道標手前あたりから北側へ向かって道が曲がり、やがてすぐに元通りのまっすぐな道が高鷲の橋へ向かって修正されている事に気づきます。この曲がりは『東へ一里、二里と、北へ一条、二条と引かれた条里制の基準線として堺から羽曳野へ千年以上の歴史をもつて今の時代まで変遷することなく整然と伸びている』という説に背きますが、これは明治天皇が堺にある水族館の見学後に長尾街道をお通りになり島泉の吉村邸へお立ち寄りになる事が決定された時に、道を整備したことによって現在の曲がり道となったらしく、整備まではまっすぐな道であったそうです。慶応生まれの語り手が学校を出て織り子の奉公に出たが、機まで足が届かず下働きをしていた頃の話だと語っておられますので、明治9~10年頃の事だと思われます。
・・・まだまだ、知らないことがいっぱいあります。