●黛弘道編『蘇我氏と古代国家』の“河内飛鳥を歩く”(和田萃)の九章に“臥龍橋”の命名について書かれています。
雄略紀九年七月条にみえる飛鳥戸郡の人、田辺史伯孫の伝承にもとづくのだろう。伯孫の娘は、古市郡の人である書首加龍(ふみのおびとかりょう)に嫁いでいた。臥龍橋はこの加龍の名に由来するのかもしれない。
※ここで言う伝承とは、応神陵で起こった葦毛の馬と、埴輪の馬の取り替え事件である。
※「蘇我氏と古代国家(古代を考える)」編:黛弘道/吉川弘文館(1991/03)
飛鳥の朝廷で専権をふるった蘇我氏は、古代国家建設に大きな役割を果たした。本書は、かつて逆臣とされてきた蘇我氏を、歴史舞台への登場からその狭間に姿を没するまでを、推古朝・大化改新・壬申の乱などの画期における動向と、渡来人や同族とのかかわりから多角的に追求する。蘇我氏に視点をすえ「古代国家」を問おうとするユニークな試みである。
【日本書紀】雄略天皇九年七月壬辰朔条
雄略天皇へ河内国からの言上。「飛鳥戸郡(あすかべのこおり)の人田辺史伯孫の娘は、古市郡(ふるいちのこおり)の人書首加竜の妻である。伯孫は娘が子を産んだことを聞いて、婿の家にお祝いに行き、月夜に帰った。蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵(ほむたのみささぎ)の下で、赤馬に乗る者と出会った。その馬は竜のようにうねり歩き、急に鴻(おおとり)のように跳んだ。不思議な体つきで、他馬より優れていた。伯孫は近くで見て欲しくなった。自分の乗る芦毛の馬に鞭打って轡を並べた。しかし赤馬は抜け出すと塵埃のように小さくなるまで駆け、あっという間に見えなくなった。芦毛馬は遅れていしまい、追うことができなかった。その駿馬に乗る者は、伯孫の願いを知り、足を止めて馬を交換し、挨拶をして別れた。伯孫は駿馬を得て大いに喜び、躍らせて廐に入れて鞍をおろし、馬に秣を与えて寝た。翌朝、赤駿馬は埴輪に変っていた。伯孫は不思議に思って誉田陵に戻って探すと、芦毛馬が埴輪の間にいたので、取り替えて埴輪を置いた」
※『新撰姓氏録』右京諸蕃には、「田辺史。漢王の後、知惣(ちそう)より出づ」とあり、知惣は百済の貴須(仇首)王の孫の辰孫(智宗)王、百済の辰斯王の子の知宗と同じ人物であるから、田辺史は百済系渡来氏族である。
『記紀』(『古事記』と『日本書紀』のこと)によると、書首(文首・「伝承」の加竜)は、西文(かはちのふみ)とも呼ばれ、百済から渡来した王仁(わに)を始祖としており、文筆・外交・軍事に関与した有力氏族で、古市郡を本拠としていた。前述の田辺史の伝承は、百済から渡来した田辺史や西文の祖先が、誉田山古墳の被葬者と親密な関係にあったことを物語っている。また、誉田山古墳の近くには、船史(ふなのふひと)・津史(つのふひと)・白猪史(しらいのふひと)の3氏の本拠地があった。この3氏の祖先は、百済の貴須(仇首)王の孫の辰孫(智宗)王とされている。この3氏と田辺史・西文が渡来したのは、応神(昆支・武)時代から(子の)欽明時代にかけての時期とみられるが、誉田山古墳の近くにこれらの有力な百済系氏族が配置されているのは、誉田山古墳の被葬者が百済の大王の応神(昆支・武)であるためと考えられる。
・・・「臥龍橋」って素敵な名前ですから、何かいわれがあるに違いないと思っていました。本当かどうかはわかりませんが、スッキリしました。
・・・「臥龍橋」から近鉄「古市駅」に向かって「竹内街道(国道166号線)」を西へ進みますと、
◆古市ポケットパーク/羽曳野市古市3丁目
古代より交通の要所で栄えた古市は、人々の往来で活気あふれる町であったことが知られています。竹内街道と東高野街道が交差する場所には「銀屋」と呼ばれた江戸時代の両替商が存在しました。古の風景や活気を再現するために、空閑地を活用してミニ公園を造りました。隣接して存在する西琳寺、大正初期の銀行など歴史的な建物を中心に古市のまちを偲び、人々が集う空間となっています。なお、確認調査の結果、公園の北側では竹内街道の石組側石が見つかったことから、この部分には整備の時にブロックを敷き、街道とわかるように色を変えています。
・・・「蓑の辻」にも、それなりのいわれがあるに違いありませんね。
◆西琳寺/羽曳野市古市2丁目
西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の 丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。
※現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、陵南の森歴史資料室に展示されています。
・・・西琳寺塔心礎は、単なる大きな石ぐらいにしか思いませんが、背伸びして上から覗き込みますと「なるほど」と納得できます。これまでも「西琳寺」については紹介してきましたが、なぜまた今なのかと言いますと、先日「畑田家住宅」を訪問したのです。
◆畑田家住宅◆
583-0874羽曳野市郡戸470番地/072-762-7495
江戸時代以来、郡戸地区の重要な役割を果たしてきた。平成11年2月19日、国の文化財保護審議会で、羽曳野市では初めて、国の登録有形文化財に選ばれた。広い敷地の北側東に主屋が、南側に道路に面した長屋門とそれに続く二棟の蔵があり、庄屋屋敷としての格式を伝えている。主屋前庭を囲むように、西側に大きな納屋があり、東側には道路に接して井戸、湯屋、厠を含む付属屋があって、長屋門との間が塀で結ばれ、街路沿いの景観を整えている。主屋と納屋の西側に裏庭があり、塀で囲まれている。主屋はつし二階を持つ田の字型平面に座敷がつき、土間の梁架構は古い伝統をよく伝えている。2棟の蔵は東、中、西蔵の3室に分かれ、東蔵は家具、什器の貯蔵とかき餅の乾燥貯蔵に、また中蔵は米蔵に使われていた。これらに長屋門、付属屋、納屋を配した屋敷構えは明治期の旧家の趣をよく残しており、特に白漆喰塗りの外観の意匠は優れていて、羽曳野市を代表する建造物の一つということができる。建立年代は確定できないが、主屋は明治20年(1887)頃の再建と伝えられ、部材の経年の度合いなどからみても妥当で、他の建物も同時期の建築とみられる。(「畑田家住宅」のしおり)
・・・なんと、「西琳寺」の手水鉢を発見したのです。もちろん譲り受けてここにあるのでしょうが、とてもうれしくなってきました。簡単に壊したり捨てたりする時代ですが、良いものは良いとして互いに協力して末永く大切にしていきたいものです。
「畑田家住宅」次回は、5月18日(日)に一般公開と医学フォーラムが開催されます。