★2013/10/24
待庵の映画セットが堺市役所21階展望ロビーに設置されました。
公開期日~2014/03/31まで
◆待庵・・・京都大山崎の妙喜庵に残る国宝の茶室
1582年に豊臣秀吉が千利休に命じてつくらせた茶室と伝えられる利休唯一の遺構で、現存するものではもっとも古い茶室である。利休の美意識が凝縮された茶室で、侘び数寄のための茶室の在り方を追求していく上で、漸くたどり着いた僅か二畳という小さな空間に縮小することで、侘び茶の創意工夫を深めていった。茶室はもてなしの場だけに、客に窮屈な思いをさせることのないよう、造形上の工夫を天井や窓、壁など至るところにめぐらせ、部材の寸法に繊細なまでにこだわっている。また、待庵は土壁で囲い、柱を丸太に改めるなど自然の素材を基調としたことで、この簡素な空間はゆるぎない緊張感と深い精神性がみなぎる空間となっている。待庵は柿葺切妻造の屋根の南側に深い土間庇があり、内部は二畳敷と次の間、勝手一畳からなる。
・窓/窓の大きさと配置に細心の工夫を傾け、窓を設けることで微妙な明るさ、明暗の分布を創出できるようになっている。東側の二つの下地窓、南側の連子窓の配置がそれである。
・壁/全て土壁で藁すきを表面に散らした素朴な荒壁仕上げにすることで、簡素なデザインを極めている。室床はその空間に拡がりを感じさせる手法で、壁も入隅の柱が消され、丸く塗廻する大胆な手法を取り入れ極限の狭さにゆとりを与えている。
・入口/昔の茶室は入口の外に必ず縁がついていたが、利休の時代には縁が土間庇となり、入口はにじり口へと変化した。土間庇は露地の一部のため、たたきの上に飛び石が打たれ、この飛び石の大きさや配置にもひと工夫がみられる。
・天井/三つに画され、床前と点前座が平天井、残りを天井を張らない斜面の化粧屋根裏にすることで、重苦しさを解消し室内にゆとりを与えている。平面的な広がりがあるだけでなく高さも感じさせる立体的な膨らみができ、客に空間の窮屈さを与えない効果もある。
・・・予約しなければ見学できないそうです。
★2014/02/13
「火天の城」「利休にたずねよ」など骨太の歴史小説で知られた直木賞作家の山本兼一(やまもと・けんいち)さんが13日午前3時42分、京都市内の病院で、原発性左上葉肺腺がんのため死去した。57歳だった。告別式は16日午後1時、京都市北区紫野宮西町34公益社北ブライトホール。喪主は妻、英子(ひでこ)さん。京都市生まれ。同志社大卒業後、出版社勤務などを経て京都に戻り、2002年「戦国秘録 白鷹伝」でデビュー。04年、織田信長の安土城を普請した棟梁(とうりょう)らの苦闘を描いた「火天の城」で松本清張賞を受け、同作は映画化された。茶の湯を大成した千利休の美意識の根源と死の真相に迫った「利休にたずねよ」で09年、直木賞に選ばれた。近年、肺がんが見つかった後も、安土桃山時代の天才絵師・狩野永徳の苦悩の生涯を浮き彫りにした「花鳥の夢」などを刊行。13年には「利休にたずねよ」が市川海老蔵さん主演で映画化(田中光敏監督)された。その後、再び体調を崩し入院していた。
●小説のこと・映画のこと
利休居士が大成させた侘茶は、文字通り、侘び、寂びこそがその真髄だと言われている。そのため、利休居士自身も、禅の悟りを開いた人物で、ただただ枯淡の境地で茶を点てていたと思われがちだ。実際、大徳寺に参禅した利休居士は、大悟の允可を与えられているので、この推測はもちろん一面の正しさをもっている。しかし、利休居士は、本当にそういう人だったのだろうか。わたしは、利休居士の茶の湯の本質は、むしろ熱いパッションにあると考えている。そんな想像をめぐらせて『利休にたずねよ』を書いた。田中光敏監督は、原作をじつによく読み込んで映画化してくださった。若き日から切腹にいたるまでの利休の人生を、大胆に、かつ繊細に映像化してくれた。利休役の市川海老蔵さん、妻・宗恩役の中谷美紀さんをはじめとする役者の皆さんがみごとに演じてくれたので、とても素晴しい作品に仕上がっている。
●ものがたり
女のものと思われる緑釉の香合を肌身離さず持つ男・千利休は、おのれの美学だけで時の権力者・秀吉に対峙し、天下一の茶頭に昇り詰めていく。刀の抜き身のごとき鋭さを持つ利休は、秀吉の参謀としても、その力を如何なく発揮し、秀吉の天下取りを後押し。しかしその鋭さゆえに秀吉に疎まれ、理不尽な罪状を突きつけられて切腹を命ぜられる。利休の研ぎ澄まされた感性、艶やかで気迫に満ちた人生を生み出したものとは何だったのか。また、利休の「茶の道」を異界へと導いた、若き日の恋とは…。「侘び茶」を完成させ、「茶聖」と崇められている千利休。その伝説のベールを、思いがけない手法で剥がしていく長編歴史小説。第140回直木賞受賞作。解説は作家の宮部みゆき氏。