・・・以前、一度来たことがあるお寺なんですが、まったく記憶に残っていないので、新鮮そのものです。
◆根来寺
649-6202和歌山県岩出市根来2286/0736-62-1144
開創された覚鑁(かくばん)上人は肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)で生まれました。13歳で京都 仁和寺の寛助僧正に従い出家得度し、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登り、真言密教の復興に努力しました。やがて鳥羽上皇の庇護を受け、学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。同時に根来近郊の岡田・山東・弘田・山崎の荘園を院宣により賜り、覚鑁上人を筆頭とする大伝法院は大いに隆盛しました。しかし大伝法院方は高野山の一部の人たちとの間に確執を生じ、結局、保延6年(1140)に根来に移ることとなりました。
その頃の根来には豊福長者が建てた葛城山系の山岳信仰をおこなう草庵がありましたが、覚鑁上人は、その草庵を建て直し豊福寺と名付け、学問所として「円明寺」を、お住まいとして「密厳院」を造られ、康治2年12月12日(1143)に根来にて49歳の生涯を閉じられました。 覚鑁上人の入滅後、大伝法院衆徒の一部は高野山に戻りますが、その後、正応元年(1288)頼瑜僧正が再び高野山から大伝法院の僧侶を率いて根来に移ってまいります。頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成しました。中世根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であったことが、伝えられた多くの聖教資料から近年明らかになりました。当時の根来寺境内を示す「根来寺伽藍古絵図」には、覚鑁上人の法灯を守る法会を営む堂塔伽藍と中性院に代表される教学を伝受する300~400の院家が描かれております。戦国時代、大きな勢力を備えた根来寺は、当時の様子を書いたルイス・フロイスの『日本史』にも紹介されています。
●行者堂
この堂は山内の僧侶が護摩という神聖な火を焚いて真言密教の大切な修法をするところです。本尊は役の行者を祀り、仏法興隆のための行場となっています。
●聖天堂
名勝聖天池に浮かぶ堂は聖天堂で聖天尊を安置している。奥壇に十一面観音、毘沙門天、愛染明王、大黒天を安置しています。この堂正面の朱塗の壇が有名な「根来塗」で古くから伝わっているものです。
しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼き払いまいました。その後しばらく復興を許されませんでしたが、やがて紀州徳川家の外護を受けて、大門・伝法堂・常光明真言殿・不動堂など主要な伽藍が復興され、また、ほぼ時を同じくしてその功績が称えられ、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜されました。現在根来寺は新義真言宗の総本山として、興教大師の御廟を守り続けております。葛城連峰の端に、およそ350万㎡の境内を有し、国宝に指定される「根本大塔」、宗祖 覚鑁上人独自の教学をあらわす大日如来像・金剛薩埵像・尊勝仏頂像の三尊を奉る「伝法堂」を中心に、史跡 根来寺境内は中世の佇まいを残し四季折々桜・青葉・紅葉が変化に富み多くの参拝者の目を楽しませています。
●光明真言殿
光明真言殿は覚鑁上人〔興教大師〕を祀る廟であり、本坊の西に並んで建つ。桁行五間、梁間四間の外陣背面に、奥行五間、梁間二間の内陣を突出させる。正面に向唐破風付の向拝を設け、入母屋造、本瓦葺、内陣は妻入りとする。側廻りに蔀戸や舞良戸を用いた、閑雅な住宅風の大規模な建物で、文化元年(1804)、本坊とともに落慶供養が行われたと伝えられる。
●庭園
この庭園は奥御殿(焼失)の北西方に社尾山の鬱蒼たる樹林を負い、奇岩怪石を縦横に配置した池泉式蓬莱庭園である。享和元年(1801)に紀州家の吹上御殿御座所がここに移築されることとなり、同時に計画され御殿の落成に引き続いて築造されたものと考えられている。この庭園の中心となるのは奥書院庭園で、奥書院から眺める観賞本意の庭である。奥書院から裏山いっぱいに造られた池と山の斜面をうまく利用した庭園である。
・・・かなり見ごたえがあります。