泉南市と阪南市の境界を流れる男里川は、和歌山県と大阪府との県境を源に発する山中川・菟砥川(うどがわ)・金熊寺川(きんゆうじがわ)の三川が阪南市の鳥取中付近で合流して大阪湾に至る延長約2.5km、の2級河川です。河口の沖合いには関西国際空港を眺めることができ、淡路島や天気の良い日には明石海峡大橋も肉眼で見ることができます。河口付近は大阪湾に残された数少ない自然の干潟が残されており、干潟には多くの底生動物(ベントス)が生息しており、それらをエサとするシギやチドリ類、カモ類、カモメ類などが多く飛来し、渡り鳥の集団渡来地としても重要な場所で、四季を通して多くの生き物たちと出会うことができます。このように、この場所が非常に重要であることから、平成13年12月に環境省が発表した「日本の重要湿地500」に選定されていますし、平成17年11月には河口から上流の府道堺阪南線(旧国道26号線)の男里川橋の間の約25haが大阪府の鳥獣保護区に指定されています。
●泉南市男里6-16-8・サークルK泉南男里店前
・・・泉南市から田尻町に向かいます。
◆【田尻歴史館】◆
598-0092泉南郡田尻町吉見1101-1/072-465-0045
館の建築者である谷口房蔵氏(大阪合同紡績㈱元社長)は明治から大正時代を通じて関西繊維業界の中枢を担い、「綿の国から生まれた綿の王」とまで称された人物です。氏は1861年(文久元年)、泉州日根野郡吉見の里(現泉南郡田尻町大字吉見)に生まれました。氏が15歳の時、父の人助けで家計が苦しくなり親戚である紋羽問屋に引き取られ、ここで以後の人生を大きく変えていく木綿と出会います。34歳の時、たまたま株を所有していた明治紡績の経営を再建し、これをきっかけに次々に中小紡績所の建て直しにあたるようになります。1900年(明治33年)大阪合同紡績株式会社を創立し、さらに1906年(明治39年)には、豊田佐吉氏を支援、豊田式織機株式会社を創立して社長に就任しました。
こうして房蔵氏は田尻町にも吉見紡績を設立、インドより原綿を仕入れる為、港(現田尻漁港)を浚渫し道路を整備。教育の重要性を痛感し幼稚園・小学校などの教育の為の費用などを負担。町財産を支援し鉄道の重要性にいち早く気付いて阪和線(旧阪和電気鉄道)の導入に尽くし、大阪倶楽部、綿業会館の設立にも尽力、日本棋院の創設など様々な分野において貢献しました。死後、遺言で残された百萬円(今日の貨幣価値でおよそ50億円)が谷口財団として70年間、ご子息の豊三郎氏に受け継がれ、すばらしい研究をされた湯川秀樹氏他ノーベル賞、文化勲章受賞者等々を中心に何の見返りも考えられず、焼け野原の日本に脈々と助成金を出し続け日本を支えられたそうです。その精神を京セラの稲盛財団が引き継がれたそうです。ステイタスシンボルとして建てられた洋館の横に、日常生活のための和風住宅が設けられ、ヨーロッパ・スタイルの洋館と伝統的な和館が見事に調和しています。特にインテリアでは、至る所にステンドグラスが使われています。また、設計者は不明ですが、建物そのものが美術品といっても過言ではありません。平成18年3月27日から5月25日にかけて、塗装・畳入替・障子張替・火災報知器増設・空調設備設置・庭園手入等、全面的な改修工事を行い、同5月27日にリニューアルオープンしました。
・・・レストランは予約しておかないと入れないほどの盛況ぶりです。熊取町の「煉瓦館」もそうでしたが、古いものをうまく生かした新しい企画が成功しています。