・・・「赤丸ポスト」が多くあるという泉南地区をターゲットに、ミュージアム巡りをすることにした。
・・・ひたすら外環170号線を泉南方面へと走り、まずは「熊取町」へ。
◆【熊取交流センター煉瓦館】◆
590-0415泉南郡熊取町五門西1丁目10-1/072-453-0391
煉瓦館は平成17年11月に開館しました。熊取の歴史や文化を体験し、学ぶことができる資料展示(体験ホール)や本格的な藍染めができる工房、既存のレンガ壁を活かした壁面ギャラリーなどがあり、さまざまな催しを開催しています。これらの施設は、各種研修会、展示会、発表会、教室などとして一般利用することができます。
この建物は昭和初期に建設された綿布工場を保存再生したもので、レンガ壁は建設当時のものをそのまま活かし、のこぎり屋根を再現するなど工場の雰囲気を残しながら、近代化遺産として後世へ継承するべく、煉瓦館として新しく生まれ変わったものです。元々綿布工場としては、明治後期に現在の公園部分に旧工場(紺屋工場)が設立され、その後昭和初期に川を挟んで現在残っている新工場(五門工場)が増設されたもので、敷地面積約20,000平方メートルの広大な土地に、工場のほか、宿舎や食堂などが併設されていました。明治期に建てられた旧工場は取り壊されましたが、煉瓦館となっている新工場は、木造の事務所棟、煉瓦造の倉庫棟(現染め工房からレストラン部分)、汽かん室、東側と西側に分かれる本体工場部分から構成された大工場群を形成していました。これら建物の内、旧汽かん室、旧事務所棟、旧受電室の3棟は町指定文化財となっています。
※重要文化財「中家住宅」
590-0415泉南郡熊取町五門西1丁目11-18
中家は平安時代、後白河法皇が熊野行幸の時に立ち寄り、行宮(仮設の御所)とした由緒ある泉南地方の旧家です。「中」の家名は、前九年の役(1051~62)に源頼義と共に奥州へ下向した高瀬清原武盛の跡を継いだ嫡男盛晴が、中と改めたことに始まり、盛晴の嫡男盛秀は左近将監に任じられ、中家は代々「左近」を名乗りました。室町・戦国時代には紀伊国根来寺の氏人となり、根来寺の一子院であった成真院に子弟を送るなど深いつながりをもちました。そして、その勢力を背景に広く和泉国や紀伊国北部に及ぶ田畠を買い集め、また麹販売の権利を持つなど、この地方における政治・経済の担い手として活躍しました。なお、成真院院主であった根来盛重は徳川家直臣として、関ヶ原の合戦や大坂の陣で奮戦し、のち徳川家の旗本になりました。江戸時代には岸和田藩の郷士代官(松平氏の時代)や七人庄屋(岡部氏の時代)の筆頭を勤めました。谷内には四百石を越える持高を有し、三十軒前後の「家中」と四十軒余りの「内衆」を抱えていました。五門・野田・紺屋・小垣内・宮・久保・下高田の村々の年貢徴収や、年寄・組頭の決定など熊取谷の行政全般を委ねられるとともに元禄5年(1692)には岸和田藩藩札の札元任じられ、藩経済にも貢献しています。中家住宅正面の家紋は、後白河法皇が熊野山行幸の折、当家にて作った甘瓜を献上し、それを喜ばれてこれを家紋とするようにお言葉があったことにちなみ、「三つ巴」と定めたものです。また中家は江戸時代末期、思想家として活躍した25代当主中瑞雲斎(1807~1871)や、明治時代に衆議院議員を勤めた28代当主中辰之助(1867~1936)などの人物を輩出しています。なお、中家には室町時代の売券をはじめ明治時代に至る古文書が多数伝えられています。
・・・残念ながら「中家住宅」には入れませんでしたが、予想以上に「煉瓦館」が素晴らしく、大満足です。