ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

・・・私の1/17震災ウォークで特筆すべきものを紹介します。


◆(ノザワ

650-0035神戸市中央区浪花町15番地078-333-4111

神戸市中央区に本社を置く、建築材料メーカー。ビル外壁材に使用される押出成形セメント板「アスロック」を中心に製造している。初代社長の野澤幸三郎が、1897年(明治30年)に野澤幸三郎商店を設立し、染色のための洋藍染料などをの輸入を開始。その後、1906年(明治39年)に旧神戸居留地の一画で外国産スレート板(ファイブロ・セメント)を発見して輸入を開始。1913年(大正2年)に製造業への転換を図って以来、セメント建材に注力する。


とく1


1989年(平成元年)5月本社社屋「旧居留地十五番館」が国の重要文化財に指定される。1990年(平成2年)7月新本社ビル「十五番館新館」竣工。

阪神・淡路大震災で倒壊した国指定重要文化財「旧神戸居留地十五番館」(神戸市中央区浪花町)。それから3年3カ月後、明治期の建物は当時の姿によみがえった。居留地の様子を今に伝える同館を所有し、再建に力を注いだ建材メーカー「ノザワ」の最高顧問野澤太一郎さん(81)再建の経緯や思いを語られました。まずは19年前の話から「神戸・東灘の自宅で被災したが、自宅は無事だった。1990年に十五番館に隣接して完成させた現在の本社ビルのほか、明石と高砂にある工場も無事だった。一方、十五番館については全壊と聞いていたが、震災翌日に積み木細工みたいに壊れているのを実際に目にして、情けなくて涙が出た」66年、当時社長だった父幸三郎さんが同館を買い取った。「とにかく親父(おやじ)が手に入れたがった。推測だが、祖父の代に会社を興すきっかけになった取引先が十五番館のすぐ近くにあったので、親父がこの建物にこだわったのでは。買い取ってからは本社の社屋として大事に使った」89年には国重要文化財(重文)の指定も受け、社長として永久保存の決意を固めた。「現本社ビルを建設する際、保存を決意したが、せめてもの親孝行だった。十五番館の価値は、居留地時代当時のものが現地にあるということだ」「カーテン一つ付けるのにも厳しかったが、文化庁と交渉し、重文で初めて建物1棟丸ごと使ってレストランとして営業することが許可された。92年には、保存のための解体・復元工事を終えて中華料理店にテナントとして入ってもらった」そんな中、大震災が襲った。「直後は再建できるとは到底思えず、途方に暮れた。震災1週間後ぐらいに文化庁の若い調査官が訪ねて来て、『残材の5割を使えば重文指定が継続できる。予算も優先して計上する』と言ってくれた。この言葉にどれだけ勇気づけられたか。そしてそのとき、『大阪城やなく姫路城で頼みます』ととっさに返事をしていた。これはレプリカではなく本物による再建を、という意味だ」それから部材を素早く“避難”させた。


とく2

「散逸や劣化を避けるため、神戸市の担当者らが西区の養護学校跡地に運んでくれた。再建工事では木造建築の伝統技術を駆使して古材を修復するなどして、結果的に残材の7割を使えた。大地震にも耐えられるよう地盤を改良し、地下の免震装置や鉄骨補強などを施したが、外観内装ともに被災前の記憶通りの姿に再建でき、感動した。階段や装飾の修復にはオーストリアの専門家の協力も受け、米国の建築史家からは明治期の写真が寄せられて元の姿になった」古い建物を維持するのは大変だ。「うちは個人でなく会社で所有し、重文指定による修復費支援や税の減免、テナントからの家賃収入もあるので何とか。もっと大きな建物だったら持て余していたかもしれない。古い建物があちこちで取り壊されるのを見て惜しいと思うが、保存の難しさは理解できる。しかし、欧州からの来客に100年前の建築だと自慢しても驚きもしないが、なぜ日本はこうなのか」同館は旧居留地の雰囲気づくりに重要な役割を果たしている。「数十年前は単なるオフィス街だったが、古い建築を活用した大丸神戸店の店舗展開などで流行の発信地になり、カフェやレストランもできてにぎわうようになった。最近、『旧居留地はええ雰囲気になりましたなあ』と褒められるようになったが、これも居留地時代の街並みを極端に破壊せずにいてくれた先輩たちのおかげ。十五番館も残してあらためて良かったと思う。残さなければ何もなかったから」

野澤太一郎1932年神戸市東灘区生まれ。甲南大学卒業後、58年にノザワに入社する。67年に社長、95年から現職。現在、旧居留地内の104社で構成し、街づくりに取り組む「旧居留地連絡協議会」の会長も務める。同市東灘区在住。

旧神戸居留地十五番館神戸・旧外国人居留地に唯一残る当時の建物。126区画あった敷地割りの中の15番地にあったことからその名が付いた。木骨れんが造りで、2階南側にバルコニーがあるコロニアルスタイル。1880年ごろに建設され、明治期には米国領事館だったときも。1966年にノザワが買い取り、90年に隣接地に現本社ビルが完成するまで本社社屋として使用していた。現在はテナントのレストランが営業中。地震で倒壊した重文建造物が再建されるのは福井県坂井市の丸岡城に続き2例目。


とく3


◆「おしくらまんじゅう」制作:山口克昭/平成2年

奈良出身(1928~)、1963二紀展褒賞受賞1989二紀展同人賞受賞1992第1回木内克大賞野外展2003二紀展会員推挙個展(大阪、東京、京都他)開催。


とく4


・・・今年の1/17(金)午後4時頃の様子です。


◆東遊園地

神戸市中央区加納町6丁目にある都市公園。1868年に外国人居留遊園の名称で開園した日本で最初の西洋式運動公園とされる。開園当時は外国人専用であった。公園内には、ボウリング発祥の地の碑・近代洋服発祥地の碑などの各種の記念碑がある。また、慰霊と復興のモニュメント・1.17希望の灯りといった阪神・淡路大震災関連のモニュメントも、公園内にある。毎年1月17日におこなわれる阪神・淡路大震災の追悼行事では、主要会場のひとつとなっている。また、毎年12月におこなわれる光の祭典「神戸ルミナリエ」では、東遊園地のグラウンドが終端の会場となっている。なお東遊園地の「遊園地」の名称だが、今日の日本語での一般的な遊園地の意味とは異なり、「公園」と同義で使われている。この公園の名称については当初より「内外人公園」など様々な呼び方がされていたが、1922年に「東遊園地」と呼ばれるようになった。旧居留地の東に位置することが名称の由来となっている。


とく5


マリーナ像(1976年、新谷琇紀が制作)。阪神・淡路大震災により倒壊した後、時計部分は修復されず倒壊時の時刻を指し続けている。