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東福寺

嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年(1881年)の火災で再び焼失している。なお、東福寺には巨大な「仏手」(現存部分の長さ2メートル)が保管されており、旧本尊像の左手部分のみが明治の火災の際に救い出されたものと推定されている。これは創建時の本尊ではなく、14世紀に再興された本尊像の遺物であるが、本尊の「高さ5丈」というのはあながち誇張ではなかったことがわかる。



ふく1


九条道家は開山(初代住職)として、当時宋での修行を終えて帰国していた禅僧・円爾を迎えた。東福寺の建設工事は30年以上に亘って続き、法堂(顕教寺院の「講堂」にあたる)が完成したのは文永10年(1273年)であった。その後、元応元年(1319年)の火災をはじめたびたび焼失するが、九条家、鎌倉幕府、足利家、徳川家などの援助で再建されてきた。近代に入って明治14年(1881年)にも大火があり、仏殿、法堂、方丈、庫裏などがこの時焼失した。現在の本堂、方丈、庫裏などは明治以降の再建だが、国宝の三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などは焼け残り、中世の建物が現存している。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋、通天橋、偃月橋という3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。橋を渡ると、開山円爾を祀る常楽庵がある。応仁の乱の戦火を免れた貴重な文化財が数多く存在する。



ふく2


東福寺方丈」八相の

京都市東山区本町15丁目778075-561-0087

東福寺の中心にある修行用の建物「方丈」の四方を囲むように作られた庭。釈迦の入滅までの、つの物語の情景が展開するため『八相の庭』と名付けられました。一番大きな南庭には、「八海」と呼ばれる白砂で出来た大海原に、メートル近い巨大な石が横たわっています。その周りには、いくつもの奇岩が屹立しています。これらは、仙人が住むつの島を見立てたものです。その右側には、禅宗の本山を表した苔むした丘があります。南庭だけでつの情景が盛り込まれています。東庭には7つ目の情景があります。互い違いの高さの本の石柱が、北斗七星の形に配置されているのです。西庭には市松模様に大きく刈り込まれたサツキがあります。つ目の情景であるこれは、北庭の石と、うずまき苔で作られた市松模様へと続き、どこまでも連なる田んぼをイメージしています。


ふく3


1939年『日本庭園史図鑑』を書き上げた同じ年、三玲は東福寺から本殿の実測調査を依頼されます。そして、荒れ果てた庭を目にするのです。寺の執事長は、本殿の修復で金がないため、実費のみで作庭を依頼します。この時三玲は、自分の手で歴史に残る昭和の名園を作ることを決意するのです。彼は、『日本庭園史図鑑』で得た膨大な庭の知識を東福寺の庭作りに全て注ぎ込みます。作庭家の誰もが目標にするという名園、龍安寺の庭を意識し、自然の厳しさを際立たせたかつてない手法を用いました。さらに画家を目指していた三玲は、前衛絵画の手法も取り入れました。着工から半年を経て、三玲は43歳で『八相の庭』を完成させました。庭開きの日には全国から数千もの客が訪れ、その名作に目を奪われたのです。


ふく4


東福寺龍吟庵」東庭

本坊庫裏の背後、偃月橋を渡ったところの山裾の平坦地に位置する塔頭で、東福寺三世・南禅寺開山である無関普門の塔所(墓所)として、入寂直前に創建された。東庭珍しい赤砂の枯山水重森三玲作(毎年11月に一般公開)



ふく5


・・・残念ながら、このお庭は拝観できませんでした。「赤砂」見たかったなあ。