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・・・春日大社前まで歩いて、100円バスで奈良ホテル前まで、


春日大社

630-8212奈良市春日野町1600742-22-7788

春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命様を神山御蓋山山頂浮雲峰にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命様、また枚岡神社から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっておられます。これは、20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからです。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っています。また、全国3000に及ぶ春日の御分社、奉納された3000基の燈籠は、その厚い信仰の広がりを示しています。そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕を始め、年間1000回に及ぶお祭りが行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられています。平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。


こく1


奈良ホテル

630-8301奈良市高畑町10960742-26-3300

1909(明治42)年10月に営業開始したホテルで荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建っており、興福寺、春日大社、奈良公園などの観光地にも近い。第二次世界大戦前には国営(鉄道院→鉄道省直営)の時代が長く、関西において国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設としての役割をになっていた。このため「西の迎賓館」とも呼ばれる。今日でも著名人が多く宿泊し、皇族の奈良宿泊の際にはこのホテルが利用されることが専らである。現在本ホテルは株式会社奈良ホテルが経営しており、資本金は4億円。後述する歴史的経緯から、うち西日本旅客鉄道株式会社が50%、近鉄ホテルシステムズが50%出資する。このため、JR西日本、近鉄の両系列下にあり、JR西日本ホテルズと都ホテルズ&リゾーツの両方に加盟するホテルである。本館の建築にあたっては鉄道院によって35万円という巨費が投じられ、東京駅駅舎を手がけた辰野金吾と片岡安のコンビが設計を、関西の建築界において指導的立場にあった河合浩蔵が工事監理をそれぞれ担当するという、建築当時の日本を代表する建築家たちによる万全の体制が敷かれた。本館は寺社の多い奈良の景観に配慮し、屋根上に鴟尾を置き壁面を白い漆喰仕上げとした木造2階建て瓦葺き建築で、内装は桃山風の豪奢・華麗な意匠とドイツ風の重厚な意匠が混在する、和洋折衷様式となっている。迎賓館に準じた施設として国の手厚い保護の下で運営されるようになった。またその経緯ゆえに、鉄道省によって外国からの観光客誘致のためのポスターなどで使用することを目的として制作が依頼された、上村松園、前田青邨、横山大観、川合玉堂、竹内栖鳳ら当時を代表する日本画家による絵画や、やはり鉄道省の依頼で制作された鳥瞰図の名手吉田初三郎による「奈良ホテル鳥瞰図」の原画などが本ホテルに所蔵・展示されている。海外からの観光客が多数来訪することが予想された日本万国博覧会の開催に備え、本ホテルは1968年(昭和43年)に大規模な増改築を計画した。近代的な外観の半地下式グリルが景観に大きな影響の無い規模で新設され、これに伴い不要となったラウンジが撤去され大和文華館文華ホール(旧奈良ホテルラウンジ)として移築されています。


【名勝旧大乗院庭園】

奈良ホテルの南側に隣接する「名勝旧大乗院庭園」が2010年4月3日より、一般公開を開始いたしました。大乗院とは、1087年(寛治元年)に創建され、平安時代から江戸時代に栄えた門跡寺院のひとつ。(藤原氏の子弟が入室し、興福寺の別当職を輩出していた。)治承4年(1180年)の南都焼き討ちによる焼失後に現在地に移り、廃仏毀釈の影響で明治初年に廃寺となるまで存続していました。現在、その敷地内の一部が奈良ホテルとなっています。同庭園は室町時代の徳政一揆で荒廃しましたが、その後門跡尋尊大僧正の依頼により、銀閣寺庭園を作った作庭の名手善阿弥によって改造されます。将軍足利義政を始め公家たちがしばしば拝観に訪れ、以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられていました。一時は奈良ホテルのテニスコートやパターゴルフ場が設置されたこともありましたが、戦後その一部が整備され、1958年(昭和33年)国の名勝に指定されるに至りました。1995年からは奈良文化財研究所による発掘調査と並行して、江戸時代末期の門跡・隆温が描いた「大乗院四季真景図」をもとに復元工事が進められ、この度平城遷都1300年祭に伴い、一般公開を開始いたしました。

【名勝大乗院庭園文化館】

「名勝 旧大乗院庭園」の一角に建てられた「名勝大乗院庭園文化館」は、かつての大乗院を復元した模型や、関係資料の展示を無料公開する歴史的文化遺産に親しむ施設であるとともに、各種催しに利用いただける茶室や会議室(有料)を備えています。また、屋外の築地塀には御所馬場町にあった楽人長屋土塀のデザインを取り入れています。


こく2


◆興福寺

630-8213奈良市登大路町480742-22-7755

法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれました。その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその歴史を刻み続けています。


こく3


◆【国宝館】◆

僧侶が集団で食事をする食堂が建てられていた場所に、昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造りの耐火式宝物収蔵庫として建てられました。食堂と細殿を連結して内部を一堂とした建物で、数多い仏像や寺宝を収蔵し、一般公開するための利便生を考慮して設計された、正面9間(35.3m)、側面8間(31.8m)の、本瓦(ほんがわら)葺き建物です。地下には、旧食堂の奈良時代以降の遺構がそのままの形で保存されています。館内には旧食堂の本尊千手観音菩薩像を中心に、興福寺の歴史を伝える絵画、仏像、工芸品、典籍、文書、歴史資料、考古遺物などが収蔵されています。奈良時代の阿修羅像などの乾漆八部衆像や乾漆十大弟子(像、梵鐘、華原馨、平安時代の銅造燈籠や火袋扉、板彫十二神将像、鎌倉時代の木造金剛力士像、木造天燈鬼・龍燈鬼像、さらに飛鳥の山田寺から運ばれた7世紀の銅造仏頭などの国宝や、その他に重要文化財の木造阿弥陀如来像や木造薬師如来像、梵天像、帝釈天像なども安置されています。なかでも阿修羅像は天平彫刻の傑作として、人びとから熱い視線が注がれています。



こく4


興福寺創建1300年記念、1959年の開館以来50年で初の全面改修のため2010年1月18日から休館、再開しました。展示方法を一新し、仏像はガラスケースに収めずに公開。スポットライトを多用し彫刻を立体的に浮き立たせ鑑賞しやすいよう工夫を凝らしました。さらに2011年2月、国宝館で展示している阿修羅像など国宝の仏像17体に免震装置を設置。装置は金属製の板を2枚重ねた構造で、厚さ約3ミリ。転倒の危険がある震度5以上で作動し、震度4程度の揺れに低減できる。ベアリングを利用した免震装置に比べ軽くて薄く、展示台の下にすっぽり収まる。設置に手間がかからず3日間の夜間の作業で完了、拝観停止の必要もなかった。同寺の多川俊映貫首は「阪神大震災以降、対応を検討してきたが、これで少し安心できる。拝観者にも違和感なく見てもらえる」と話した。国立東京博物館や国立九州博物館での「国宝阿修羅展」では、160万人も動員する画期的な展示だったし、帰還後の「お堂でみる阿修羅」展でも、仏像の顔や体の特徴を浮かび上がらせる照明であった。今回の改装も、同じ空間デザイナーが照明を担当。今までの国宝館の展示はまるで倉庫内展示のようであったが、国宝館自体の面積は変わらず、限られた空間をうまく仕切り、ゆったり鑑賞できるようになりました。


こく5


・・・まだまだ見たいところはありますが、今回はここまで。抹茶をいただいてホッと一息、帰路につきました。