ミュージアム | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

◆【湖族乃郷資料館】◆

〒520-0242 滋賀県大津市本堅田1丁目21-27077-574-1685


・・・以前、「浮御堂」「琵琶湖タワー」そして「佐川美術館」の訪問したことを紹介しましたが、ここを省いていましたので・・・


「湖族の郷資料館」は堅田商工会、堅田観光協会、湖族の郷、堅田商業連合協同組合が共同運営する資料館で、平成9年(1997)開館しました。堅田の歴史、文学、芸術についてや農具や生活用具、漁具等の展示があり、堅田出身の志賀廼家淡海に関する資料他があります。階展示室から琵琶湖側をみると浮見堂等が見えます。湖族の郷は吉川英治・新平家物語に登場する場面から造語されたそうです。中世、堅田は琵琶湖上交通を支配、独特な社会構成がありました。御厨(みくりや)や荘園について説明もあります。京の都や比叡山延暦寺に近い堅田は宗教に関しても独特な潮流があり、美しい琵琶湖を訪れる文芸人も多く、多岐に渡る資料があります。「舟を曳きあげ漁師は帰る あとに残るは櫓と櫂 波の音 ヨイショコショ 浜の松風と歌われる「淡海節」は、明治・大正・昭和の三代にわたり一世を風靡した喜劇役者・志賀廼家淡海が作った曲です。大正年頃に盛んに唄われたそうで、現在は滋賀県の民謡として知られるようになってきました。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-こぞ1


堅田は琵琶湖の狭窄部に位置しており、背後に堅田丘陵を有している。水運が主体であった時代には湖上交通の要衝として栄え、琵琶湖沿岸で最大の自治都市が築かれた。古代には近江国滋賀郡に属する。11世紀後半には堅田の漁師達が下鴨社の支配下に入り(堅田御厨)、続いて堅田とその周辺地域に比叡山延暦寺の荘園(堅田荘)が成立した。承久の乱後、佐々木信綱が現地の地頭に任じられたが、延暦寺・下鴨社ともに対抗するために延暦寺は堅田に湖上関を設置して他所の船を排斥し、下鴨社は堅田の漁民・船主に漁業権・航行権(水上通行権)を保障する事で堅田の経済的・交通的特権を保証した。以後、彼らと近江守護に任ぜられた佐々木氏(信綱の一族)は、堅田とその漁業権・航行権を巡って激しく争うことになる。中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-こぞ3


司馬遼太郎街道をゆく

シリーズの最初に選んだ道が「湖西のみち」第1巻第1章)でした。みずから「この国が好きである」という近江の、琵琶湖西岸を旅したのは昭和45年(1970)、粉雪舞う12月のことで。「週刊朝日」の1971年1月1日号から1月21日号に連載されました。「近江からはじめましょう」という司馬のことばで「街道をゆく」シリーズがはじまったわけです。司馬さんの小説でも近江は重要な舞台となっています。近江は第24巻の『近江散歩』でも取り上げられています。大津から湖岸沿いに安曇川町まで北上し、そこから西に移動して朽木の興聖寺を訪ねました。西近江路を安曇川町までたどり、そこから鯖街道(朽木街道)へ。



「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-こぞ4


・・・山がいよいよのしかかるあたりに、「小松(北小松)」という古い漁港がある。.....ここも高麗津(こまつ)だったのかも・・・中世では近江の湖賊(水軍)という大勢力がこの琵琶湖をおさえていて、堅田がその一大拠点地であった。この小松は堅田に属し・・・まるで古代安曇族(あずみぞく)の生活ではないかとひそかにおもったが・・・北小松の家々の軒は低く、紅殻格子が古び・・・それが粉雪によく映えて、こういう漁村が故郷であったならばどんなに懐かしいだろうと思った・・・石垣や石積みのうまさは、湖西の特徴のひとつで・・・この田園の暗渠(あんきょ)をショウズヌキという。よほど上代からの暗渠らしいが、その石組みの技術はどこから来たのだろう。そのかぎは、新羅神社や韓崎、和邇、楽浪といった地名のなかにかくされていることは、ごく自然な想像と言える・・・石組みについては・・・穴太(あのう)という土地がある(もっとも全国にこの地名が多く、穴生とか穴穂という字を当てたりするが、古代語で格別な意をあらわす言葉に違いない)・・・この漁港から湖岸をわずかに北へ行と、山がいよいよ湖にせまり、その山肌を石垣でやっとくいとめているといったふうの近江最古の神社がある。白髭神社(しらひげじんじゃ)という・・・最近、白髭は新羅のことだという説もあって、それがたとえ奇説であるにせよ、近江という上代民族の一大文明世界の風景が、虹のようなきらびやかさをもって幻想されるのである



司馬遼太郎国盗り物語より

「わしに一計がある。弥平次、このあたり一面にころがっているめぼしい荷物を船に運び入れて一足先に堅田(対岸)へ舟出せよ。堅田で捨ててしまえ」

「と申されますると?」

「堅田衆は、源平のころいらい、この琵琶湖の水上をおさえている海賊衆だ」

それを荷物で手なづけてしまえ、と光秀はいうのである。

「そうときまれば早くせい。わしは義秋様おまもりしつつ後刻、舟出する」

・・・

「明智光秀という者だ」と、まず名乗り、「堅田の衆であろうな」と畳みかけた。さらにいった、「公方様のお味方につくと迷わずに決心をかためよ」

船の者は、堅田衆である。勢いに呑まれたような表情で光秀を見つめている。

かれらは、なるほど義秋を迎えるために船を出してここまでやってきたが、櫓を漕いでいる途中にもさまざまに迷ったらしい。

(義秋を殺してその御首級を京の三好氏にとどけるのが得か、それともお迎えして恩を売り奉り、将来を楽しむほうが得か)

と、かれらは思った。その迷いが、水中にいる服部要介の勘にわるくひびいたのであろう。

が、堅田衆にしても、素裸の使者にいきなり飛びこまれてしまっては、決心をかためる以外に手がない。

党首の堅田多左衛門という髭づらの男が槍を伏せて光秀に一礼し、

「謹んでお味方に」

と、ひくい声でいった。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-こぞ5


志賀廼家淡海(1883~1956)

喜劇役者。明治16年(1883)滋賀郡本堅田村の割烹旅館主の子として生まれる。本名田辺耕治。江州音頭で頭角をあらわし、18歳で芸界入り。同38年、新派劇団堅国団を結成、座長となる。同41年、喜劇に転じ、芸名を志賀廼家淡海、座名を八景団と改めた。その後地方巡業の途中、舞鶴の浜で、のちに一世を風靡することになる「淡海節」のヒントを得たといわれる。やがて松竹の専属となり、中央劇界に進出、大正末年から昭和初年、曽我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇界の名優として知られた。晩年は親鸞や蓮如を題材にした宗教劇で人気を博しました昭和31年(1956)、巡業先の鹿児島の舞台で死去(享年73歳)。堅田駅前の交番横に、藤山寛美さんの名前が刻まれた淡海の顕彰碑があります。


博多淡海(初代)18951963

大正-昭和時代の芸能家。明治28年5月15日生まれ。大工職人から博多にわか師となる。昭和15年志賀廼家淡海から博多淡海の名をもらう。以後喜劇を主体に,半面をつけない博多にわかで人気をえた。2代は初代の3男で,老女役を得意とした。昭和38年9月30日死去。68歳。福岡県出身。本名は木村平三郎。