◆【大和文華館】◆
〒631-0034奈良県奈良市学園南1-11-6/0742-45-0544
近鉄奈良線「学園前」駅の北側にある「松伯美術館」、南側には「大和文華館」と「中野美術館」がありますので・・・ハシゴをします。
財団法人大和文華館は、古都奈良の西部、近鉄奈良線学園前駅近くの閑静な住宅街に位置する美術館です。昭和35年(1960)、近畿日本鉄道(近鉄)の創立50周年を記念して開館しました。近鉄の五代目社長であった種田虎雄(1883~1948)は、京都・奈良・伊勢といった歴史ある地域に鉄道を敷設している会社として、日本美術の素晴らしさを世界に向けて発信できる施設を沿線に作ることを望んでいました。この期待に応えるべく計画を一任されたのが、後に初代館長となる美術史家、矢代幸雄(1890~1975)です。矢代はイギリス・イタリアに留学して初期ルネサンス美術を研究し、ロンドンでは英文の大著『サンドロ・ボッティチェルリ』を出版しました。帰国後、西洋美術から東洋美術へと目を転じます。東京文化財研究所所長などを歴任し、日本・東洋美術のもつ価値を普遍的な言葉で世界の人に伝えるべく、研究に専念し、西洋美術の眼からみた東洋美術の再評価に関する研究は大きな影響を与えました。こうして、洋の東西を超えた国際的視野を持った矢代によって、美術館のコンセプト、コレクション収集など、ゼロからの美術館作りが始まりました。戦後間もない昭和21年(1946)のことです。昭和35年10月31日、『開館記念特別展』の開会式が行われ、大和文華館は開館しました。この間、財団設立から14年もの歳月が流れています。この時までに所蔵品は700件を超えています。鑑賞のための美術館、美のための美術館として、矢代が最も重視したのが自然との調和です。矢代は東洋の美術は、「自然の額縁」のなかにおいて一番美しく見えると考えていました。この理念を受けて建物を設計したのが、日本芸術院会員、吉田五十八(1894~1974)です。大和文華館は菅原池(通称:蛙股池)をのぞむ高台にあり、文華苑とよばれる自然苑に周囲をかこまれています。赤松の古木が出迎える門をくぐり、本館に通じる小径のゆるやかなカーブをのぼると、一歩ごとに、気持ちが美術鑑賞に向かって整えられていくのを感じるでしょう。
本館の建築は、外観は桃山時代の城郭をイメージさせる海鼠壁、なかに入ると庫裡風の重厚な木組みにささえられた廊下がひろがり、明かり障子から差す優しい光につつまれ、ゆったりと展示場へいざなわれます。展示場中央に大胆にも設えられた竹の庭は、当館の大きな特色です。自然光を取り込む他に例のない展示空間が広がります。大和文華館の収蔵品は、東洋の絵画、書蹟、彫刻、陶磁、漆工、金工、染織、硝子等の美術工芸品約2000件で、ジャンル・テーマごとに地域、時代が概観できるように網羅的に蒐集されています。この中には「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」「寝覚物語絵巻」「一字蓮台法華経〈普賢菩薩勧発品〉」「李迪筆 雪中帰牧図」の国宝4件をはじめ、「佐竹本三十六歌仙絵断簡 小大君像」「可翁筆 竹雀図」「埴輪鷹狩男子像」「青磁九竜浄瓶」などの重要文化財31件、「阿国歌舞伎草紙」「宮川長春筆 美人図」などの重要美術品14件が含まれています。また、中村直勝博士蒐集古文書664件、近藤家旧蔵富岡鉄斎書画コレクション143件、鈴鹿文庫(和書)約6100冊があります。これらの所蔵美術作品をテーマごとにご覧頂く平常展を年6~7回、特定の主題のもとに館内外の美術作品を展示する特別展を年1~2回開催しています。展覧会会期中、毎週土曜日には展示場において、当館学芸員による展示作品の解説を行い、日曜日には学芸員による日曜美術講座を実施しています。また、特別展会期中は、第一線でご活躍の外部の方を講師として招き、講演会を開催しています。この他、当館では美術への関心をより深めて頂くため、日頃の研究成果を披露するための出版事業を行っています。代表的なものとしては、昭和26年の創刊以来継続して出版している美術専門誌「大和文華」をはじめ、特別展や記念事業にあわせた各種図録などがあります。開館50周年を迎えた平成22年(2010)、本館建物の耐震補強やバリアフリー化などの大規模な改修工事を行いました。リニューアル工事は、当初設計及びコンセプトの尊重を第一に、よりよい展示空間、鑑賞環境となるよう進めました。大和文華館は、初代館長矢代幸雄の理想とした、「美のための美術館」を実現するために集められた所蔵品によって、作品の深い味わいと東洋美術の新たな表情に出会う喜びを、これからも多くの人と共有していきたいと願っています。
●2013年10月12日(土)~11月17日(日)大和文華館特別展・宮川長春
宮川長春(1682~1752)は、宮川派・勝川派の祖であり、十八世紀前半に肉筆浮世絵を専らとし、江戸の美人画をリードした浮世絵師です。1694年に没した菱川師宣の様式を継承しながら、独自の馥郁たる色香を湛えた優麗な美人画を量産した長春は、得意の図様の美人画や名所風俗図を多く手掛けるかたわら、新しい物語図などにも意欲を示しました。現在、世界中に相当の作品数が伝存していますが、今まで、長春だけに焦点を当てた展覧会は一度も開催されたことはありません。大和文華館は、長春の立美人図の優品を所蔵しており、かねてから長春芸術の全貌を知ることを念願していましたが、遺存する作品のレベルにかなりの幅があり、基準作を選定するのが困難であること、年記のある作品が皆無に近いことなど、克服すべき課題が多く横たわっていました。開催に際し、そういった点が全て解消されたわけではありませんが、この展覧会では日本にある長春作品の大半を集めることができました。この機会に、長春の絵画世界をご堪能いただければ幸いです。
●宮川長春〔天和2年(1682年)~宝暦2年11月13日(752年12月18日)〕
江戸時代の浮世絵師。宮川派の祖。宝永年間(1704-11年)から寛延年間(1748-51年)頃活躍、先行する菱川師宣や懐月堂派に学び、豊潤、優麗な美人画で一家を成した。尾張(愛知県)宮川村の出身(美濃説もあり)。俗称は長左衛門。始め菱川姓を名乗る時期もあったようである。春旭堂と号した。はじめ狩野派や土佐派に学んだといわれる。作中の樹木などの背景描写に江戸狩野派的な要素が見られ、稲荷橋狩野家の狩野春湖元珍に学んだとも推測される。しかしそれに飽きたらず菱川師宣に私叔し、懐月堂派の立美人図の影響を受け、流麗な描線と上質な絵の具を用いた丁寧な彩色による艶麗で気品ある肉筆美人風俗画で大成し、宮川長春を名乗った。長春の作品には制作年代を確かめられる作品が殆どなく、署名もほぼ一定しており、その作風の変遷を追うのは困難である。しかし、「歳旦の遊女と禿図」(個人蔵)の元箱の箱書きに、享保7年(1722年)4月家老の砧佐島津家の家老・島津久浜が薩摩藩5代目藩主・島津継豊から拝領した旨が記されており、長春画の受容層の一端が分かる。また、同作では既に長春様式が完成していることから、この頃には画風を確立していたと考えられる。寛延3年(1750年、一説に翌年の宝暦元年)表絵師稲荷橋狩野家当主の狩野春賀に招かれ、宮川一門を率いて日光東照宮の彩色修理を手伝ったのも、その事を例証する逸話であろう。ところがこの時春賀はその報酬を着服して支払わず、翌年の12月29日長春は催促に訪れた春賀邸で暴行を受けてしまう。長春はこの時、打擲されて荒縄に縛られゴミために棄てられたといわれる。長春の息子長助は、報復のため門弟と共に春賀宅を夜襲、春賀を殺害した他、その家人を2名ないし4名を殺傷した。この事件は喧嘩両成敗となり、稲荷橋狩野家は断絶、春賀の子春朝は八丈島に遠島となった。宮川派は、長春が間もなく亡くなった事からその身代りとして、高弟の一笑が伊豆新島に配流、長助は死罪に処せられたとも自殺したとも伝えられる。享年71。
●大和文華館に、渡辺南岳「殿様蛙行列図屏風」が所蔵されています。
渡辺南岳〔明和4年(1767年)~文化10年1月4日(1813年2月4日)〕
江戸時代後期の画家。京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門。円山応挙の高弟で応門十哲に数えられる。江戸に円山派を広めた。画をはじめ源に師事し、ついで円山応挙に学ぶ。入門時期は不明だが、30代に入って年期を記した作品では既に円山派の技法を完全に身に付けている事から、20代には弟子入りしていることが推定される。二十代後半になって俳諧を中心とした版本の挿図(挿絵)を手がけている。このころ、三河吉田の恩田石峰が門人となっている。三十代前半の3年間、江戸に遊歴。俳諧師の鈴木道彦と親交があり、『むまの上』(享和2年刊・1802年)の挿図を画いた。江戸において開催された書画展覧会(「秋芳園新書画会」文化元年)などに参加。谷文晁・亀田鵬斎・酒井抱一・鈴木芙蓉・釧雲泉・浦上春琴・雲室・横田汝圭・長町竹石・広瀬台山・夏目成美・亀井東渓など当代一流の文人と交流した。文晁の娘婿文一や大西椿年、鈴木南嶺が入門。渡辺崋山も南岳画の模写を熱心に行っている。このように南岳は江戸において「京派」・「京伝」と称され、文晁派を中心に円山派の画法を広めた。京都に戻ると四条柳馬場東に住し、円山派(奥文鳴・森徹山)・四条派(長山孔寅・柴田義董・岡本豊彦)の画家と交友し画作に励む。皆川淇園からは画の依頼を受けている。また国学者の上田秋成との交流が知られる。南岳は大明国師像の模写を依頼されたとき、秋成の容貌が国師に似ている気づき、顔の写生を行ったという。文化10年正月、突如病に倒れ死没。享年48。戒名は「釈南岳信士」。京都双林寺に葬られた。京都の門人に中島来章・松井南居がいる。それぞれ京都と江戸で南岳の「三十三回忌追善書画会」を開催している。南岳は、流麗な筆致で美人図・鱗魚図を得意とした。なお、尾形光琳を敬慕したとされるが、その画風に琳派のあまり影響を見ることはできない。しかし、装飾的な画面構成にその影響を見る向きもあり、江戸琳派の絵師酒井抱一は、南岳死去の報を聞いて「春雨に うちしめりけり 京の昆布」とその死を惜しむ句を詠んでいる。
・・・お土産には「殿様蛙行列図屏風」Tシャツを購入しました。
・・・奈良ホテルの旧ラウンジを移築したものだそうです。ここでも辰野金吾さんに出会うとは。
一品制作の肉筆画で遊女、遊里風景、庶民風俗などを描いた作品が多く、春画にも優品を残している。現存作品数は、おそらく200点ほどになると推測される。国外にある日本美術を一定数以上所蔵する美術館には、しばしば長春の作品が見受けられ、外国人にも人気があったことが伺える。浮世絵師の多くは版画と肉筆画の双方を制作したが、宮川長春は肉筆画専門の絵師で、生涯版画には手を染めなかった。同時代の絵師と比べ、最も多く高価な絵絹の作品が残っていることから、長春の支持者はやや富裕な町人か武家だったと考えられる。長春には蚊帳から顔を出してた蚊帳美人図や、遊女が腰かけている腰掛美人図など、定型的に用いられる図様が多い事で知られている。「美人立姿図」も長春の得意とした豊満な女性の一人立ちの画像で、弓なりに身を反らし、しかも垂直性の安定感を失わない堂々たる姿態が感動的な作品である。その眉と目が平行に前方を見据える顔の表情はきりっとしていて清々しい。