大阪城(3)
■刻印石広場
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示、紹介するため新設したものである。刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積の過程で、個々の石に、必要に応じてさまざまな文字や文様を刻み込み、さらに出来上った石垣の表面に担当大名の家紋その他を刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されている。ここに展示したものは、昔の石置き場、周辺の川筋などから出土したものや場内の石垣修理で撤去されたものなどである。一般に、大阪城の石垣は豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちであるが、実は、現存する石垣はすべて元和・寛永年間(1620~1629)に徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。
■秀頼・淀殿ら自刃の地
1615年(慶長20年)家康は浪人解雇と豊臣家の移封を要求しましたが、秀頼は父の城を捨てるわけにはいかないと拒否し、大阪夏の陣が始まりました。淀は、女性でありながら、甲冑に身を包み、豊臣方の総大将として徳川との戦に臨みましたが、堀を埋められた豊臣に勝ち目はなく、ついに大阪城は落城。淀は、秀頼の「豊臣の人間として果てたい」という言葉で、自分もともに自刃することを決めました。家臣に救出された千姫の助命嘆願も受け入れられず、5月8日、山里曲輪で、焼け残りの櫓に潜んでいた淀と秀頼は櫓に火を放ち、大野治長、大蔵卿局と共に自害して果てました。淀殿42歳、秀頼23歳でした。秀頼の子の国松は、潜伏しているところを捕えられ処刑。娘の奈阿姫は、千姫の助命嘆願により、出家することを条件に助けられました。初は、淀に徳川家の恭順を必死で説いたそうですが、思いかなわず悲しい結果となってしまいました。
■山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の傷跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍需工場があった大阪城も標的となった。山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数カ所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。
■山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。天正11年(1583)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目を行っている。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀る豊国社も建てられた。慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。
■天守下仕切門跡
天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いとし、そのため門は東に向いていた。徳川幕府による大坂城再築時に築かれ、明治維新の大火により石垣上にあった塀ともども焼失したと考えられる。