大阪城 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大阪城(2)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-あお1


「青屋門」は改修工事中・・・


■極楽橋

創建1626年(寛永3年)焼失1868年(明治元年)再興1965年(昭和40年)鉄筋コンクリート造り修理1983年(昭和58年)橋の高欄と橋面修理

山里丸と二の丸をむすぶ橋で、もとは巾3の木造橋であった。「豊臣時代大坂城本丸図」にもこのあたりに木造橋が描かれている。


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「豊臣期大坂図屏風」(オーストリア・エッゲンベルク城所蔵)について

「豊臣期大坂図屏風」は、オーストリアのグラーツ市にあるエッゲンベルク城(世界遺産)に所蔵されています。もとは八曲一隻の本間屏風だったと考えられますが、現在は一扇ずつ分解されエッゲンベルク城「日本の間」の壁面にはめ込まれています。「豊臣期大坂図屏風」は、遅くとも17世紀後半にはエッゲンベルク家が所有していたことが判明しています。以降、この屏風は長い間、特別な注目を受けることなく過ごしてきました。バーバラ・カイザー氏(エッゲンベルク城博物館主任学芸員)が修復と調査に着手したのが2000年から2004年にかけてのことです。修復の過程で日本の屏風らしいということがわかり、カイザー氏から調査依頼を受けたのがフランチィスカ・エームケ教授(ドイツ・ケルン大学/センター研究員)でした。エームケ教授は関西大学の招聘研究者として2006年に来日され、その際に屏風の写真を携えて、本センターの前身である「なにわ・大阪文化遺産学研究センター」を訪れました。そしてなにわ・大阪文化遺産学研究センターで調べた結果、現存作例の少ない、豊臣期の大坂城とその城下を描いた屏風であることが確認されました。2007年、州立博物館ヨアネウム(オーストリア)と大阪城天守閣、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターの3者間で「豊臣期大坂図屏風」の共同研究について協定が結ばれ、3か年の研究が行われました。この間に5度の国際シンポジウムが開催され、また2009年10月には「豊臣期大坂図屏風」が取り持つ縁で、大阪城とエッゲンベルク城の間に友好城郭提携が結ばれました。関西大学大阪都市遺産研究センターでは、引き続き「豊臣期大坂図屏風」の研究を進めています。その研究目的の一つにデジタルアーカイブの作成があります。このたび本センターでは、「豊臣期大坂図屏風」のデジタルコンテンツを制作いたしました。「豊臣期大坂図屏風」を所蔵するエッゲンベルク城の情報、屏風を代々所有してきたエッゲンベルク家の人物、屏風に描かれた景観の解説をご覧いただけます。


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竹生島宝厳寺唐門

大坂夏の陣(1615年)で焼失した豊臣期大坂城の唯一の建物遺構ではないかと近年、琵琶湖・竹生島(滋賀県長浜市)の宝厳寺の唐門(国宝、桃山時代)が、専門家の注目を集めている。オーストリアで7年前に見つかった豊臣期大坂城の屏風絵に描かれた「極楽橋」と似ているためだ。昨年、唐門を調査した関西大・大阪都市遺産研究センターの高橋隆博教授も「極楽橋だった可能性が高い」とみている。極楽橋は豊臣秀吉が1596年に、本丸北側に架けたと、当時日本にいた宣教師ルイス・フロイスが書簡に記し、〈黄金で輝く高貴な橋〉と評している。だが、秀吉没後の1600年、秀吉をまつる豊国廟(京都市東山区)に移築、巨大な門になったことが当時の文献に記される。さらに豊国廟の社僧の日記には、1602年に「極楽門」を竹生島に寄進するため壊し始める、との記述がある。北川央・大阪城天守閣研究主幹は、極楽橋が門に姿を変え、豊国廟を経て、竹生島に移った可能性があるとみていた。極楽橋と唐門とを結びつけたのは、2006年、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で確認された豊臣期大坂図屏風だ。焼失前の大坂城を正確に描写しており、北川研究主幹らの調査で、極楽橋の正面の姿が竹生島・宝厳寺にある唐破風からはふ様式の唐門と酷似することがわかった。描かれた橋の側面にある朱や緑の花模様の彫刻と、唐門に残る牡丹ぼたん唐草の彫刻の特徴も一致。唐門の彫刻には絵と同じ朱や緑青が残っていた。北川研究主幹は「極楽橋の姿が屏風の絵で明らかになり、大坂城と豊国廟、竹生島が一つの線でつながった」と話している。高橋教授は昨年、内側の扉の上部を切り詰め、低くした痕跡を確認した。門の高さはかつて10メートル程度あったと推測。「これだけ豪華で大きな門は秀吉の建造物だろう」とみている。秀吉は天下を治める前に長浜城主を務め、宝厳寺に寄進していたという。側室・淀殿が育った浅井家も竹生島を守り神として信仰するなど、もともと縁は深い。高橋教授は、豊国廟の極楽門を島に移すとした日記に徳川家康の命令を指す「内府より」の記述があることに着目。「家康は極楽橋という秀吉の栄華の象徴が目障りだったのだろう。ゆかりの島への移築で、豊臣家を納得させたとも考えられる」と推測する。


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竹生島宝厳寺

『唐門』とは、唐破風をもつ門という意味です。この『唐門』は、秀吉を祀った京都東山の豊国廟に建っていた『極楽門』を豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として移築されたものです。移築の際、土地の条件から観音堂に接して建てられています。桧皮葺、建物全体を総黒漆塗りとした上に金鍍金の飾金具が散りばめられ、虹梁中央の蟇股の周囲には鳳凰や松・兎・牡丹の彫刻を、二枚の大きな桟唐戸や壁には牡丹唐草の彫刻を極彩色塗りとして飾っています。豪華絢爛と言われた桃山様式の『唐門』の代表的遺構です。平成18年、オーストリアにあるエッゲンベルグ城にて『大坂城図屏風』が発見されました。その絵中には『極楽門』の前身であったと伝えられている大坂城の本丸北方に架けられていた『極楽橋』の姿が描かれており、その絵図から判断して、『唐門』は秀吉が建てた幻の大坂城の唯一の遺構であるのは間違いないのではと昨今注目を集めています。


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新フェスティバルホールの緞帳

新フェスティバルホール(大阪・中之島)に二つの緞帳がお目見えした。幅30メートル、高さ13メートル、重さ1・8トンで、国内の音楽ホールでは群を抜く大きさ。専門家2人の講演会があり、図柄の魅力が明かされた。

狩野博幸・同志社大文化情報学部教授

それにしても、今回緞帳になった2枚の絵はまったく趣が違う。「豊臣期大坂図屏風」は庶民や侍の行き交う大坂の町が生き生きと描かれた風俗画。外国に保存されていたものが選ばれたことに感服している。もう一つ、長谷川等伯(1539~1610)の「柳橋水車図屏風」は日本の美、日本人の美意識を示した作品といえる。ちょうど今年、作家の安部龍太郎さんが「等伯」で直木賞を受賞した。機会とはこうして重なるものですね。等伯といえば日本の水墨画の最高作品とされる国宝「松林図屏風」が有名だ。彼の活躍した桃山時代は画壇に2人の巨人が現れ、戦い続けた。2人とはもちろん等伯と狩野永徳(1543~1590)だ。等伯は幼いころを信春といい、能登の七尾で生まれ育つ。絵で名をあげようと、妻子を連れて京を目指したのは33、34歳のころだった。一方の永徳は当時30歳。京の画壇を席巻する狩野家の御曹司であり、日本の風俗画の最高峰とされる国宝「洛中洛外図屏風」を23歳で描いている。2人はライバル同士といいながら、ミケランジェロとラファエロとはわけが違った。おそらく等伯は狩野家に入門したが、当然離れてゆく。その後は堺の豪商たちと結びつき、千利休とも交流する。そして相当苦労しながら画壇に上り詰めるわけだが、「本朝画史」には当時の2人の確執がはっきりと記されている。永徳の死後、等伯の隆盛は大変なものがあった。「柳橋水車図屏風」はまさにそのころの作品。月の浮かぶ夜の景で、金色の橋の向こうには平等院鳳凰堂がある。つまり極楽浄土への希求が表現された意匠だ。装飾豊かな原画の世界が緞帳に見事に表現されたことは、大変ありがたい。

高橋隆博・関西大文学部教授

豊臣期の大川や船場、住吉など大坂の町を生き生きと描いた絵が、こうした文化の殿堂に緞帳として残される。豊臣秀吉も涙を流して喜んでいるだろう。この屏風絵は、オーストリア・グラーツの、現在は博物館となっているエッゲンベルク城の壁に、「インド風」の絵として飾られていた。現在は館長になった学芸員のバーバラ・カイザー博士が、2000年からの修理を機に由来の調査を開始。彼女から相談を受けたドイツ・ケルン大のフランチィスカ・エームケ教授が06年に関西大に来た際、私は写真を見せられて驚いた。間違いなく豊臣期の大坂城の姿だったからだ。17世紀半ばの屏風絵が、なぜオーストリアへ渡ったのか。1641年に幕府が鎖国政策を強化し、屏風の海外持ち出しも禁止されたが、それからもオランダ東インド会社を通じて流出は続いた。18世紀のエッゲンベルク候の財産目録には「インド風の屏風」の記録がある。多くの美術品を収集した3代目当主の注文を受け、オランダ東インド会社が買い付けたのだろう。この絵図では、本丸から北に架かる「極楽橋」が注目される。イエズス会宣教師が1596年に本国への報告で、屋根や望楼を備え、黄金に飾られた立派な橋だと記しているが、まさにそのままの姿だ。橋は秀吉の死後の1600年、彼をまつった京都の豊国神社に門として移築され、さらに2年後、豊臣秀頼が琵琶湖の竹生島に寄進したという記録がある。今も島の宝厳寺に残る唐破風の門は、豊臣期大坂城の唯一残った建物の可能性がある。宝厳寺の門の欄間に彫られた鳥は、中国で天子の乗り物を象徴する「鸞」だろう。秀吉は後水尾天皇の大坂城への行幸に備え、京都からの街道側に立派な極楽橋を架けたのではないか。

二つの緞帳は、今年創業170周年を迎えた「川島織物セルコン」の京都市左京区にある工場で織り上げられた。全工程は1年2カ月。全て職人たちの手作業だ。5層の天守閣の大坂城に光り輝く極楽橋、大川を行き交う船。パナソニック寄贈で「豊臣期大坂図屏風」を元にした緞帳には、502人の細やかな所作や着物などが描かれ、豊臣時代の庶民の活気があふれ出てくるようだ。製作が始まる直前の2011年9月、図案と下絵を担当した同社美術工芸製造グループの堀田美幸さん(50)は、原図が残るオーストリアのエッゲンベルク城を訪れた。糸で織ったサンプルなどを持ち込み、色調を確かめるためだった。こだわり抜き、最終的に約600色を使った。男女で眉の太さをわずかに変えたり小紋柄を出したりするなど、細やかな配慮も忘れなかった。「根気のいる作業だったが、これほど思い出深い仕事はなかった。豊臣期の大坂のにぎわいを感じてもらえるのでは」と話す。アサヒビール寄贈で長谷川等伯の「柳橋水車図屏風」を元にした緞帳は、対極をゆく幽玄な風致が特徴だ。「豊臣期・・・」が「動」ならば、こちらは「静」。柳の葉の向こうに透けて見える黄金の橋から、川の流れまでが繊細に表現されている。同社は、東京・銀座の新たな歌舞伎座にも、三つの緞帳を納めた。「達成感、誇らしさ、そして何よりほっとした気持ちでいっぱい」と堀田さん。奇跡的に海外で見つかった「豊臣期大坂図屏風」と、等伯の傑作である「柳橋水車図屏風」。どちらを使うかは、公演主催者が決めるという。


・・・すごく長い解説になりましたが、これまで出会ってきた様々な事や物がつながり織り成す、ドラマのようです。