大阪城 | すくらんぶるアートヴィレッジ

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大阪城(1)


大阪城に行く機会が、すぐやってきました。


だんじリ祭in大阪城2013

立地、規模、知名度どれもみな抜群なのに、大阪城は観光資源として今ひとつ活用し切れていない感が。そんな大阪城(公園)を舞台に、2012年秋「だんじリin大阪城2012」というイベントが開催されました。そもそも「地車」の原型は古来、大規模土木工事現場で活用された「修羅」であり、「地車囃子は、大阪城築城の際、工事をスムーズに進めるための音頭だったといわれています。つまり、だんじりは大阪城にルーツを見出せるものであることから、大阪城公園内をだんじりが勇壮に往来する「だんじリ祭in大阪城2013」は間違いなく大阪城に相応しいイベントといえます。このイベント開催の大目的は、ズバリ大阪の一大観光拠点である大阪城(公園)を舞台に、「だんじり祭in大阪城」を、大阪を代表する観光資源として大きく育成。各地から観光客を呼び込み、大きな経済効果を生み出すことにあります。これから年々規模を拡大していくことを念頭に、大阪といえば「だんじり祭in大阪城」といわれるほどのお祭りイベントに盛り上げていきたいと考えております。だんじりは大阪市内だけでも80基以上が保有されています。もしそれらが大阪城に集結すれば一気に大阪のど真ん中で行なわれる大阪を代表する秋の大イベントに躍り出ることは間違いありません。現在大阪では、大阪を世界的都市とするための戦略の中に、大阪市内5エリアのマネジメント戦略として「大阪城・大手前地区の世界的な国際観光拠点へ」というものがあります。さらに水都大阪2015、大阪城まちづくり400年、道頓堀400年民間の関連プロジェクトなどがあげられています。「だんじリ祭in大阪城」はこの大阪城400年関連の祭りの一環に最適と考えており、名乗りを上げる準備を進めています2012年はプレイベントとして10基でスタートしましたが2013年には20基まで増やし、企画内容もさらに充実したものにいたします。またそれに伴い、各種メディアへの露出など広報活動に注力します。それにより知名度をアップし観客増員、物販の底上げを図ります。実際に2012年開催日はだんじり関係者の注目度も高く、大阪城をバックに曳行するというハレの舞台がどのようなものか、あるいはこのイベントそのものがどのようなものか見物に来られた人も多くおられました。また、たまたま大阪城を訪れた方もだんじりに魅かれて集まり、イベントの内容の確認や来年度の開催予定などを本部テントに質問をしていかれましたすでに2013年の開催に向け、自分たちも出場したいという声はいくつかの地区から運営事務局に届いています。どうかこのイベントの趣旨にご賛同いただきご協力いただけますようお願い申しあげます。



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大阪城公園駅から太陽の広場へ・・・


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まさか、ここも司馬さんとつながりがあるなんて・・・


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大阪市や東大阪市のだんじりが一堂に集結するイベント「だんじり祭in大阪城」が11月3日、大阪市中央区の大阪城公園で開かれ、大勢の観光客や地元住民らでにぎわった。大阪城を観光拠点として活気づけようと、地元住民らで作る実行委員会が昨年に続いて開いた。大阪市城東区、生野区、鶴見区、東大阪市のだんじり15台が公園内を巡行。そろいの法被に身を包んだ地元住民らが、にぎやかな太鼓や笛の音に合わせてだんじりを引くと、観客から歓声が上がった。メーン会場の「太陽の広場」では、ライブなどのステージイベントが行われたほか、たくさんの屋台も並び、大勢の人たちで盛り上がっていた。


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■砲兵工廠

一般的に大阪砲兵工廠と呼ばれていますが、名称は何度か変わり最終的には大阪陸軍造兵廠となります。明治新政府が発足と同時に設立した兵器工場(主に大砲や弾丸等を製造)で、発足当初から西欧先進諸国の高い技術水準に追いつくため、明治新政府の採算を度外視した投資と諸外国の最新技術が投下されました。その成果は年を追うごとに大きな進歩と発展を遂げていき、兵器以外の金属製品も製造していきます。明治28年、大阪市民に水道の水を供給可能にした鉄管は、高度な鋳造技術を持った大阪砲兵工廠が製造(約半数は輸入品)。明治時代における日本の製鋼技術、ニッケルやクロームなどの特殊鋼技術のほとんどが大阪砲兵工廠の技術で開発されたといっても過言ではないようです。第一次世界大戦が始まると、日本には参戦国からの軍需品等の注文が殺到しました。大阪の工業水準は、大阪砲兵工廠の高い技術力と民間企業の研究熱とが相互にうまく作用し、世界水準まで引き上げられていきます。東洋のマンチェスター、東洋一の工業都市大阪の誕生は、大阪砲兵工廠の存在なくしてその発展はなかったかもしれません。


・・・目的の一つが「戦跡」としての大阪城です。


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そして、目的の二つ目が「大坂城」の痕跡・・・「プリンセス・トヨトミ」とも重なります。


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「青屋門」から城内へ・・・


青屋門

青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。