東高野街道(63) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(63)


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伊勢灯籠・宝篋印塔/大阪狭山市今熊丁目

伊勢灯籠とちょっと離れて宝篋印塔がたっている。伊勢灯籠は「太神宮今熊村中明和五戊子年九月吉日」とあり、1768年「村」が伊勢灯籠を建立したことがわかる伊勢講などが主体になって建立するのは近世後期だと言われている。狭山神社にある伊勢灯籠は宝暦10年(1760)建立南河内でもっとも古く、大阪狭山市は早い時期から伊勢信仰が定着した地域であり盛んであったようである。文政13年(1830)に近畿一円に広がったおかげ踊りの発祥地も、大阪狭山市の半田であったという。また宝篋印塔は1707年建立されたものである。宝篋印塔は仏塔の一種で、起源は中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国にたてた8万4千基の銅製の塔の形をまねて簡略化したものだとされている。宝篋印塔の名前は宝篋印陀羅尼を収めたことによる。今熊の宝篋印塔は塔身から上が無い。


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三都神社/大阪狭山市今熊5丁目

階段の下には「文殊地蔵尊」という地蔵堂がある。三都神社の社号は三都神社熊野三所権現ご祭神は伊奘諾尊・伊奘冊尊・須佐之男尊である。旧三都村の鎮守であるが、今は今熊・茱萸木・大野・口大野・岩室・山本・山伏・隠・池ノ原・西山台・大野台が氏子となっており、産生神氏神として崇敬されてきた。一般に琴平さんと呼ばれているが、今熊神社、また、昔の熊野街道沿いにあるので、熊野権現を勧請したことから熊野神社とも呼ばれている。三都神社の本殿は500年近く経つが、その本殿にはその当時より三十数個の十六菊花紋が残っている。由緒によると、神社は大字今熊の西北、金蔵寺原にあり、創建年代は詳らかではないが、三十六代孝徳天皇のころ伝えられている。享保年中(1530年頃)兵火にかかり、社殿、堂塔、神宝類ことごとく消失した。現在の本殿は天保15年(1546年)9月、寺僧諦観が再建したと伝えられる。明治5年村社になり同41年12神饌幣帛料供進社に指定された。(「三都神社略記」より)


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「狭山神社」にも寄り道・・・


狭山神社/大阪狭山市半田1丁目

式内社で、旧社格は郷社。天照皇大神と素盞嗚命を主祭神とし、臣狭山命(狭山連の祖神)・天児屋根命を配祀する。また、明治の神社合祀により大山祇神・稲田姫命を合せ祀る。『神社要録』『河内国式神私考』『河内国式内社目録稿本』では臣狭山命を主神としている。室町時代ごろから江戸時代までは「牛頭天王社」とも称していた。創建の年代は不詳であるが、崇神天皇の勅願により、狭山池の築造以前に創建されたという伝承がある。延喜式神名帳では、近隣の狭山堤神社(現当社摂社)とともに大社に列格している。南北朝時代、当地は南北両軍の激戦地となり、たびたび兵火にかかった。現在の社殿は室町時代中期の明応2年の再建と推定されている。明治5年(1872年)に郷社に列格し、明治40年1月に神饌幣帛料供進社に指定された。同年12月26日、字明神山にあった村社狭山堤神社を合祀した。また、明治40年には八雲神社(祭神 素盞嗚命)、明治42年には村社狭間神社(祭神 稲田姫命・大山祇神)を合祀した。


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■弘法大師御堂/大阪狭山市茱萸木4丁目


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■茱萸木中央公民館「八幡宮」「正法寺」/大阪狭山市茱萸木5丁目