東高野街道(61) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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東高野街道(61)


・・・「十一里石」からの折り返しで、大きな「忘れ物」にはたと気付きました。


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■西高野街道と天野街道の分岐点/大阪狭山市今熊(堺市岩室

天野街道は西高野街道とで分岐して「女人高野」ともいわれる天野山金剛寺へと向かう信仰の道。大阪狭山市今熊(堺市岩室)から大野西までは、陶器山丘陵に残る自然を残し整備され、平成7年に建設省(国土交通省)の「手づくり郷土賞」を受賞、平成9年には「大阪の道99選」に選定された。また、一部を除いてほとんどの区間が丘陵の木立の中や田園地帯で、のどかな細道の中を金剛寺まで歩ける。高台を通るので金剛山地から和泉山脈の眺望も素晴らしい。


・・・のどかなウォーキングロードを単車で走るわけにも行かず、とにかく一路「女人高野」に向かうことにしました。重要な寄り道です。


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■天野山金剛寺/河内長野市天野町996

真言宗御室派の大本山である。山号は天野山。高野山が女人禁制だったのに対して女性も参詣ができたため、「女人高野」とも呼ばれる。奥河内の観光地の一つ。奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたとされる。弘法大師(空海)も修行をしたとされている。平安時代末期に高野山の僧・阿観が金堂・御影堂などを建立し、再興した。南北朝時代には南朝方の勅願寺とされ、後村上天皇の行在所ともなった。また、北朝の光厳・光明・崇光天皇の行在所とされた時期もあった。その後、戦火にも遭うことがなく、貴重な文化財が数多く残されている。


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女人高野としての基礎を築いたのは後白河法皇と皇女八条院である。八条院は当寺の一切の行事を高野山と同様にし、女人が女人禁制の高野山に入山せずとも真言密教の霊場として修養を積むことを可能とした。このことから当寺は女人高野と広く知られるところとなった


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八条院とは鳥羽天皇の皇女である暲子内親王である。母は皇后藤原得子で、生涯独身であったが、父母の莫大な遺産を継ぎ平安末期に全国に八条院領と呼ばれる広大な荘園を領していた。この莫大な財力と鳥羽院の嫡流としての権威をもって隠然たる力を持っていた皇女である。後白河法皇は異母兄にあたり、後白河帝を支えたのも彼女で当寺院は実質上この八条院が創建したといえる古刹である


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「平成の大修理」ということで、主な建築物を見ることはできませんでしたが、だからこそ、それらに目を奪われることなく細部にわたって見学できたことは良かったと思います。


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修理を終えて、新しくなった姿をまた見に来ようと思います。帰りに「天野山」も登ってきました。