東高野街道(59)
■火除地蔵/河内長野市市町
・・・ここも通り過ぎてしまっていました。まさか、こんなテントの奥にあるとは。とても賑やかなお地蔵さんたちでした。
・・・新しい道と古い道標。自然石でしたから、まさか道標だとは思いもしませんでした。
■東高野街道・巡礼道分岐点「道標」/河内長野市向野町
市町の南端、上向野より「長坂」を下り向野に入ります。坂の頂上には、西へ折れる巡礼道が有り、原町へと向かいます。分岐点には自然石の道標「右まきの/左こうや」があります。巡礼道は4番の施福寺から5番葛井寺への道です。
※那智の滝のある一番札所「青岸渡寺」から熊野古道を通って、和歌山市の二番札所「紀三井寺」へ。そして、三番「粉河寺」四番「施福寺」五番「葛井寺」となります。
※「西国三十三ヶ所巡礼」とは近畿・東海の2府5県にまたがる観音霊場を巡拝することをいい、そのルートはわが国最古の「巡礼道」です。718(養老2)年に長谷寺(第八番札所)の開基である徳道上人によって始められたといわれていますが、こんな話が伝えられています。上人は急な病気で亡くなり、冥土の入り口で閻魔大王に出会いました。「特に許すから、現世へ戻り三十三ヶ所の観音霊場を広めよ」閻魔大王はこう言うと、上人に三十三ヶ所の宝印を託しました。しかし上人の話はなかなか人々に信じてもらえず、しかたなく上人は中山寺(第二十四番札所)に宝印を埋めて、使命を後世に託したのです。そして270年後に宝印を掘り出した花山法皇により、「西国三十三ヶ所巡礼」は復興されました。室町期から明治のころまでは盛んに歩かれた巡礼道ですが、都市化が進むにつれて道は寸断されてしまいました。歩く人は徐々に減り、やがて稀となり、現代ではほとんどの人が乗り物を利用して参拝しています。
真言宗御室派の寺院。藤井寺、剛琳寺とも称する。山号は紫雲山。本尊は千手観音。西国三十三所第五番札所。寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、実際は百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定される。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。百済辰孫王の後裔氏族である、船氏、津氏とならぶ白猪氏の氏寺として7世紀中葉に建立が開始された。奈良時代の720年に白猪氏は葛井氏に改姓している。
一族からは大安寺僧慶俊が出ている。社伝では、大同元年(807)に葛井連道依娘の藤子と後の平城天皇との皇子である阿保親王によって再建された。また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院を造営した。中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が、荒廃した伽藍を修理したと伝える。南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。当寺の伽藍は東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったが、明応2年(1493年)の兵火と永正7年(1510年)の地震で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建である。
・・・ここにも在原業平が登場していますね。
さて、「高野街道」をさらに進む前に、またまた確認しておきたいことが出てきました。