東高野街道(58)
・・・実は、この閉ざされた祠が気になっていたのです。道は行き止まりになっているし・・・
■富田林御坊を中心に門前四周に七筋八町の碁盤目状の町割を整備した。南北の通りを「筋」といい、東西の通りを「町」という。筋は東より西へ数えて、東筋、亀が坂筋、之門筋、富筋、市場筋、西筋の六つを数え、今ひとつの筋は、他の筋よりやや狭く筋通りも規正のままに取り残され、筋の名も逸している。町は北から南へ数え、一里山町、富山町、北会所町、南会所町、堺町、御坊町、西林町、東林町の八町名を数える。町の外廓には土塁(土居)を廻らし、その外に竹を植え、四門(木戸)を設けて朝夕に開閉したのは平和な商区を保護するためであった。四門は山中田坂(千早街道方面)、向田坂(東高野街道)、西口(平尾方面)、一里山口(東高野街道)に設けられた。富田林に残る最も古い宝暦3年(1753年)の絵図にも町の周辺に土居が描かれている。
・・・フェンス越しにのぞいてみると、用水路が続いていました。そして、新しい団地が立てられ児童公園も整備されています。この公園のあたりが街道で「一里山口」だったのでしょう。
・・・この「旧田中邸」も一方通行に阻まれて行けてなかったので、今回のぞいてみました。
■寺内町・旧田中家住宅/富田林市本町
江戸後期に当地に移ったと伝えられる田中家は、幕末、明治期には素封家(明治44年「大阪府河内和泉資産家一覧」)に数えられる名家でした。平成16年(2004年)に富田林市に寄贈され、改修を経て2012年5月より一般公開されています。主屋、乾蔵、巽蔵等主要部分は。明治25年に建築されたもので、門戸を構え南北両側に前栽を整えるなど、邸宅風の近代和風住宅としての特色があります。
・・・まさか?、「馬頭」らしきものが飾ってあったので、ひょっとしたらと思って近づいてみると、元SAV彫刻メンバーの作品でした。富田林市に寄贈し、この「旧田中邸」に飾られていたのです。このような形で出会うとは・・・不思議なものですね。
■孝子地蔵/河内長野市市町
地蔵道標で、元文2年(1737年)11月24日 左まきのう道と読み取れます。地元の人たちによって地蔵堂に祀られています。由来は、西国巡礼に出かけた母娘が有り、母親は長旅の疲れで、この地で倒れ帰らぬ人と成りました。村人は母を無縁墓に葬り、娘を慰めました。数年後、この娘がこの地を訪れて、世話に成った村人に礼を述べて、母の霊と道中で亡くなった人を供養するために、村人と相談して、一体の地蔵尊を祀りました。その孝心を称えて「孝子の地蔵さん」と呼ばれる様に成りました。
・・・国道に面した「錦織一里塚」(富田林)に気をとられて、まさか、線路をはさんでこんな近くに「孝子地蔵」(河内長野市)があるとは思いませんでした。さらに・・・
■追加情報「錦織一里塚」
河内長野の市境から国道旧170号線を、100mほど富田林市へ入った所にあります。東高野街道の一里塚としては、本来の形である一対となって残された、大阪府下では唯一のものです。国道に面した、西側の塚には宝篋印塔があり、承応2年(1653)と、いま一基に、宝永6年(1709)の銘がそれぞれ残されています。東側の塚は、隣接する工場の裏手となっており、落ち葉に埋もれた旧東高野街道を挟んで、木立と厚い腐葉土の下にひっそりと残されています。街道の一里塚は、江戸時代に入って二代将軍秀忠の時代に、その制度がほぼ整ったとされます。一里ごと五間四方(約9m)の一対の塚とし、道程を計る標識となり、荷馬や人足の賃金の基準となりました。
・・・ここへも再確認に行ってきましたが「東側の塚」はわかりませんでした。