東高野街道(22)
■大県南廃寺(山下寺)
太平寺廃寺の北約500mの位置に所在する寺院遺跡(大県南廃寺)付近には「山下」という地名が遺存しており、同地が山下寺の故地に比定される・・・わけですが、現在は健康福祉センターをはじめ住宅開発が進んでおり、その面影すら感じることはできなかった。
・・・せめて「業平道」を歩んでいくことにする。
■業平道
平安時代の貴族・歌人である在原業平が大和国と河内国を行き来した際に通ったとされる道筋の総称。その道筋は諸説ある。在原業平とされる人物が自邸のある大和国(現在の天理市)から河内国(現在の八尾市)へ通っていた記述が『伊勢物語』やそれを基にした能・謡曲『井筒』、『大和物語』、『河内名所図会』、『河内鑑名所記』などに記され、所謂「業平の高安通い」伝説の根拠とされている。伊勢物語において業平は高安郡にある玉祖神社参拝の折、神立村の福屋という茶店の娘・梅野に恋をして、八百夜も通いつめた。『井筒』では枚岡明神詣での途中で高安の女と出会うことになっている。なお、その道筋については記述や解釈により大きくは二手に分かれている。
■在原業平/825年(天長2年)~880年7月9日(元慶4年5月28日)
平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)、父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らとともに在原氏を名乗る。仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に叙爵されるが、文徳天皇の代になると全く昇進が止まり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、862年(貞観4年)従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将・右近衛権中将と武官を歴任、873年(貞観15年)には従四位下に昇叙される。陽成朝でも順調に昇進し、877年(元慶元年)従四位上、879年(元慶3年)には蔵人頭に叙任された。また、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどしている。 880年7月9日(元慶4年5月28日)卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
■鐸比古鐸比賣神社(ぬでひこぬでひめじんじゃ)
柏原市大県にある神社。延喜式神名帳に記されている式内社で、旧社格は郷社。河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:278m)を神体山・磐座としている。神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151年)とされるが、実際の年代は不明。祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。『河内名所図会』には、「鐸比古神社(高尾神社・大県神社・高尾明神)延喜式内、高尾山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。もともとは鐸比古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていたが、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の再建。
■大県廃寺(大里寺跡)
「大県廃寺」と思われる遺跡内の井戸から「大里寺」と墨書した土師器(平安初頭)が出土、この地が大里寺跡と確定される。また大県の天理教会の坂下一帯の地籍「大竜寺(だいりょうじ)」は「大里寺」の転訛とも考えられるという。さらに附近の民家の庭石や石垣に多くの礎石の転用が見られるという。
■平野廃寺(三宅寺跡)
柏原市教育委員会は、他の5寺の位置間隔から平野廃寺の位置は三宅廃寺と想定。しかし現状は、この廃寺からは古代の明確な遺物が出土していない。
・・・このあたりだろうと思われる位置には「若倭彦神社」や「禅林寺」があった。