東高野街道(23)
「若倭彦神社」近辺を散策していると・・・
■高尾山「創造の森」
柏原市の後背地で標高278mの高尾山には、よく手入れされた「創造の森」があります。全長約4kmの遊歩道が整備されていて、森の中を快適に歩くことができます。いろいろな木や花と、大阪平野の素晴らしい眺めが、疲れを感じることもなく頂上に導いてくれます。「ひのきの道」登山口付近には、小さな滝ですが「もんじょ滝」もあります。
そして「業平道」をさらに北上していきますと、山ノ井町に「山井寺」その奥に・・・
■瑠璃光禅寺
この小堂には二体の石像が安置されています。いずれも古墳時代後期の凝灰岩製家形石棺の屋蓋部を転用したものでこうした石仏は市内の高井田、青谷地区でもみることができます。右側の如来形坐像の背面には屋根形、縄掛突起などの石棺の旧状がよく残されています。高い肉髻、長く豊かな耳、平行に走る納衣の線など、量感にあふれた鎌倉時代初期の作風が窺われます。左側の像は頭部を欠損していますが、衣の襞の線、天衣のような線が見えること、両手のあらわす容姿などから菩薩形立像と思われます。この二体の石仏は、かつて野道の傍らに半ば埋もれた状態で置かれていたものか、農具や刃物などのとぎ痕が処々に見られます。
本堂内には火災によって両手、持物を消失した四体の四天王像が納められています。本体は一木造り、両腕は柄で添える一本添木式です。遭存の良好なものには高い澎湃と彫の深い、激しい憤怒の相や胸から胴にかけての動きのある力強い表現がみられ、台座(邪鬼)を欠いた現存高101cmから104cmという高さとあわせ、焼損前の雄大な容姿を偲ぶことができます。処々に胡粉が残り、彩色されていたことがわかります。こうした像造方法や作風からみて、これらの像は平安時代初期のものと考えられます。
紹介を忘れていましたが、高井田にある石仏です。
■藤原石棺佛(阿彌陀如来座像)
当石佛は石棺の蓋石のようではあるが、木漆棺の棺台石ではないかと思われる。厚み6寸、長さ8.9尺、幅3.4尺の凝灰岩の一枚岩である。定印の阿彌陀如来座像は、高さ3.6寸、髪院高3.1寸、膝張3尺、白豪高3尺、佛身6尺の坐像の姿である。特に面相がよく当初のままの表情を残してノミのあとも鮮やかに藤原古風を見せる。藤原末の一木造佛に通した彫成で、大きく広い耳は目立たないが藤原円満の様相と言えよう。際立った顔立ちの素朴な美しさは藤原佛から脱出して活動期を迎える鎌倉期の先駆作という感じである。肘が長く、膝までについた形と胸をせまくしているが、腹のくびれは荒いタッチの定印の手相、無紋式の衣の作りにマッチして藤原時代の大らかさが見られる。大きい蓮辨3枚のように見えるが、裳懸座で、現在はセメントで塗り込められているが、この下に框座を重ねた線刻の台座があった。古墳から取り出され、戸外の念佛者のために古墳埋葬者の供養もかねてこのような石棺佛造立の由来があったのであろう、昔から高井寺にあったのではなく、以前は寺の西側の小川の上流の寺から道端に建立されたのが大和川に流出したものを川原から掘り出して、明治の頃に高井寺門前に立てられていたという伝承を持っている。(大念佛寺・大源誌より)
■若倭姫神社
創建は不詳ですが、「若倭彦神社」同様、6世紀頃この地で勢力を持っていた、若倭部連氏の祖神である若倭姫命を祀ったのが創始であろうといわれています。式内社で、若倭姫命を御祭神としています。「式内社調査報告」では、若倭姫神社は中世、醫王山薬師寺(瑠璃光寺)の鎮守社となったと記されているそうです。若倭彦神社同様、明治41年鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、昭和22年元地に復座しました。本殿裏の岩壁は磐座ではないかという説があるようです。