東高野街道(20)
■安堂廃寺(家原寺跡)
奈良時代の家原寺(「えばら寺」「いえはら寺」とも)とみられる廃寺跡が集落のすぐ東、現在の安堂町字観心寺にみつかっている。家原寺は「続日本紀」天平勝宝八年(七五六)二月二五日条にみえる、孝謙天皇巡拝の河内六寺の一つ。家原寺に関連して家原里もこの付近であろう。河内大橋の架橋に際して、天平勝宝六年九月二九日に家原里の人々が大般若経書写の奉仕知識(勧進)をしたことがあった(和歌山県伊都郡花園村観音堂大般若経奥葦。その後、興国四年(一三四三)源康政が「大方郡家原里」の光延名田地三反を観心寺(現河内長野市)の鎮守伽利帝母御宝前常灯科所として寄進した(観心寺文章。小字観心寺は、この時に寄進されたところであろう。家原里・家原寺の所在も確認できる貴重な小字地名である。大県郡に属し、正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳によると高二四九石余、ほかに山年貢高一七石余。元文二年(一七三七)の河内国高 帳も同高、ほかに小物成八石余(幕府代官所柄め)。前記村高控帳では大坂定番稲垣重綱領、「寛文朱印留」では京都所司代牧野親成領(明暦二年から)、寛文八年(一六六八)上知。延宝年間(一六七三~八一)この河内国支配帳では旗本仙石領(幕末に至る)。
安堂廃寺(家原寺跡)があったとされる場所には、「正休寺」があったが、残念ながら中に入ることができなかった。さらに、坂を上っていくと・・・
■大日禅寺
安堂の地名は仏教寺院に起因するといわれているが不詳。「河内鑑名所記」には「古へハ伽藍所之由、今ハ小堂に大日如来在ス」とある。この小堂は享保十一一年(一七二六)に中興されて、現在の曹洞宗大日寺となっている。古墳前期から中期にかけての安堂古墳群や太平寺古墳群がある。安堂古墳群は、七群二六基が認められる。前方後方 墳一基・前方後円墳一基が含まれ、また横穴もある。六~七世紀に築造された、横穴式石室を主とする平尾山古墳群や、雁多尾畑古墳群とは異なる形成過程を示している。
ここも残念ながら、中に入ることができず、奥へと道を進むと・・・
■二宮神社
二宮神社は杵築神社と春日神社を合わせた神社で、フタミヤと読むそうです。
『堅下村誌』昭和四年より
二宮神社 安堂の上方小丘にあり 喬松蒼々森をなし四望頗る佳景なり 元杵築神社 「式外細記」明和五年(1768年)写本 青矢忠勇書
杵築神社は河内国大縣郡安堂村祠 祭神 大国主命
「古老の伝説」として、当国石川郡水分明神の分社にして下水分宮とも称せりしと申す 庚平年中(1058年から)に勧請したものと申す
元春日神社 同所に鎮座 と記され、二社を合わせた理由は、安堂部落は前記即ち杵築神社春日神社の二社ありて各氏子を異にし両氏子互いに反目し物議絶えず 遂に村政にも波及するを憂ひ双方の有志奔走の結果 大正十三年十月三十一日双方の土地財産を合併し一社を建設し 右の両社を合祀するに一致調印を為たり 従て前二社は廃社に帰したり
同寺の西方に位置する石神社付近に礎石・瓦等が分布する寺院遺跡(太平寺廃寺)が存在することなどから、古くより同地が智識寺の故地であると考えられてきた。この太平寺廃寺を中心とする南北線上には、ほぼ400~500mの間隔で古代寺院遺跡が密接して存在している。太平寺廃寺の北約500mの位置に所在する寺院遺跡(大県南廃寺)付近には「山下」という地名が遺存しており、同地が山下寺の故地に比定される。このようにして寺院遺跡を己酉条記載の寺名に当てはめていくと、山下寺・大里寺・三宅寺の3ヶ寺は智識寺の北(大県南廃寺・大県廃寺・平野廃寺)に、家原寺・鳥坂寺の2ヶ寺は智識寺の南(安堂廃寺・高井田廃寺)に比定される。すなわち、己酉条に見える六寺の記載順は、智識寺から北へ4ヶ寺をまず参拝し、次に北端の三宅寺から引き返して南の家原寺・鳥坂寺に至る、という参拝順を示していると考えられる。
■太平寺廃寺(智識寺跡)
河内国大県郡にあった古代仏教寺院。現在の柏原市太平寺2丁目付近の仏教遺跡がその跡と言われている。知識と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の寄進によって建立された寺院を「知識寺」「智識寺」と称したが、その中でも河内の知識寺は後に「日本三大仏」に数えられた廬舎那仏を安置するなど、その規模の大きさで知られていた。7世紀後半に茨田宿禰を中心とした知識によって創建されたと伝えられ、河内国大県郡の一部に相当する柏原市の遺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘されており、知識寺の跡であるとする有力説の根拠とされている。また、知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石が現在でも石神社に残されている。740年(天平12年)に聖武天皇が同寺に行幸して、廬舎那仏の姿と同寺を支える人々の姿に魅了され、後に東大寺盧舎那仏像を造像するきっかけになった。聖武天皇の娘の孝謙天皇も749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)と756年(天平勝宝8年)に同寺に行幸している。こうしたことから、国家も同寺の保護に乗り出し、765年(天平神護元年)には封戸50戸が寄進され、863年(貞観5年)には修理料として新銭(饒益神宝)20貫文・鉄50挺が施入され、3年後には当時の河内守であった菅原豊持が「修理知識仏像別当」に任命されている。1030年(長元3年)には関白藤原頼通も同寺に参詣するなど、広く人々の信仰を集めていたが次第に衰退し、1086年(応徳3年)に建物が転倒して6丈の観音像が破壊された(『扶桑略記』)。以後、知識寺は荒廃し、鎌倉時代に源頼朝の命によって太平寺に統合されたと伝えられている。