東高野街道(18)
■川端橋(青谷吊り橋)
右岸(北)の青谷青少年運動広場と左岸(南)の国分地区を最短で結ぶ橋ですが、歩行者専用です。自転車の通行もできますが青少年運動広場側は階段とスロープになっています。一度に通行できる人員が15名にまで制限されており、揺らさないようにとの注意書きがされています。主塔は赤色に塗装されており、南側のワイヤーアンカーはジェイテクトの工場敷地内に設置されています。
・・・思いがけない「吊り橋」との出会いに足が震えてしまいました。
■夏目茶屋の渡し
南詰に「夏目茶屋の渡し」跡の説明板が設置されています。かつては明治初期に大和川南岸に新しい街道(現・国道25号)が整備されるまではここで渡し船で対岸に渡り、亀の瀬経由で奈良方面に通じていました。かつて渡し場付近には茶屋があり、付近にナツメが植えられていたのが名の由来とされています。
・・・このような「渡し」跡の説明まで見つけました。
国道25号線にもどり・・・
■松岳山古墳
国分神社の丘陵上のもっとも高い所にある前方後円墳です。後円部の頂上には、6枚の石を組み合わせて作られた石棺があり、国宝「船氏王後首の墓誌」をはじめ、数種の副葬品が出土しました。国分神社創建当時の現在地には、推古・舒明の両天皇に仕えた“船氏”(帰化人)が住んでおり、中国の接待方法・技術等を伝え、その才に勲功があったとして、当神社の背後の松岳山の上に葬ったと伝えられています。
その墓が当前方後円墳で、国指定史跡として国分神社が所有しているそうです。船氏は朝鮮半島百済から来た渡来系氏族で、日本書紀には、欽明天皇14年(553)に、船氏の祖・王辰爾(おうじんに)が、蘇我稲目の命令により淀川を往来する船から通行税を徴収して記録することに功績があったので、朝廷から「船氏」の姓を授けられたという記述があるらしい。本前方後円墳は、標高約65mの丘陵上にあり、水田からの比高26mで、前方部2段・後円部4段以上を測る。複数の埋葬施設があることから、船氏親族の合葬と考えられ、また小円墳や方墳は船氏一族の墓群と見られています。
オープンしたばかりの「大和川親水公園」も見学してきました。まだまだ、これから整備が進んでいくのでしょう・・・また来ます。