東高野街道(17)
このまま国道25号線を西に向かえば・・・
■国分
このあたりは古来より難波・河内国府と平城京・飛鳥とを結ぶ官道・古代道路の中継地点として栄えました。そのひとつである「長尾街道」の経由地であり、「竜田越え道」とも交わっています。河内国府からも近く、飛鳥時代後期(7世紀後半)には東条に大きな仏教寺院が建てられ、それが後に河内国分寺として改修されたといわれています。しかし平安京遷都以降は京と国府を結ぶ道路の経路から外れたことにより寂れ、国分寺もいつしか廃寺となりました。しかし国分寺があったことで、現在まで「国分」の地名として残っているわけです。国分東条町には「河内国分寺塔跡」があり、付近には21世紀に再興された「河内国分寺」があります。
・・・ありました。
■河内国分寺塔跡
奈良時代に聖武天皇の発願によって建立された国分寺のうち、河内国に建てられたもの。既に廃寺となっており、その跡が柏原市東部の丘陵の中腹に残っています。
新しくできた「河内国分寺」は現在整備中でした。
大和川をはさんで、向こうは「青谷」の丘です。そこには・・・
■竹原井頓宮(たかはらいとんぐう)青谷遺跡
天皇などの臨時の休憩所・宿泊所のことで「かりのみや」といわれ、その場所は、二ヵ所ほど候補地がありましたが、1984(昭和59)年に大和川が最も大きく曲がりくねっている青谷(あおたに=国分東条の川向い)に確定しています。
・・・行っても「資材置き場だけで何も無いよ」と言われましたが確かめに来ました。
『柏原市史』のいう陸路をとるとすれば不便なところですが、この地は、亀の瀬の激流を過ぎ大和川が穏やかになったところから、難波(なにわ)へは川船により、また、渡し船で対岸に渡り陸路で和泉へ行くとすれば納得できる場所にあります。さらに、山と川に囲まれた名勝で、天皇の警護面からしても絶好の地であったので選ばれたと考えられます。平安京出土と似た瓦・石敷・石溝跡などが出土しており、(1984年発掘調査)、当地を竹原井行宮跡とする資料は多くあります。
・・・突き当たりの青谷青少年運動広場をうろうろしていると、遺跡案内看板を見つけたのでホッとしました。さらに、素晴らしいものと出会うことができました。