東高野街道(15)
本当に美しい池です。感心していると、生まれた時からここに住んでいますから・・・と地元の方には普通の景色だということでした。
さあ、どんどん坂道を登っていきましょう・・・
■金山媛神社
境内の鳥居脇からの山道を少しあがると「至福堂」があります。『金山媛神社御由緒:御祭神/金山毘賣神(かなやまひめのかみ)当社は平安時代の延長五年に制定された延喜式神名帳に登載された式内社であります。御祭神金山毘賣神は、奈良時代和銅五年に書かれた古事記によりますと、伊邪那岐(いざなぎ)(伊弉諾神)・伊邪那美(いざなみ)(伊弉冉神)二柱の神様よりお生れになったと記されてあります。この神様は元、嶽山の嶺に奉祀されておりましたが、中世時代に今の場所に遷座されました。その間八大金剛童子社、俗に山王さん、天王さんとも称されて来ましたが明治八年に今の社名に改められました。当地は古代より鉱工業の栄えた所と思われ、その守護神として奉祀されたのが始めではないかと思われます。全国最古の鉄工の守護神として、金属業、農土木産業、火に携わる事業に対する御神徳まことに偉大であります。今も尚当地の氏神様としてその信仰は脈々と伝えられ、毎年例大祭日には町内の御旅所へと御神幸あらせられ華やかな賑わいを見せております。』
先ほど立ち寄った「金山彦神社」の由緒と共通する内容が多いようです。柏原市に鎮座する神社は、男女が対になっているのが多いような気がします。これについても、もう少し調べてみたいものです。
とうとう来ました・・・
■照曜山 光徳寺
今から一千年前、平安時代永廷二年(988)第六十四代円融皇王が延暦寺の僧法圓に命じて建立、東廣山照曜峰寺(天台宗)と号した。その後、天永四年(1113)南都北嶺の戦いにおいて七堂伽藍悉く消失、ただ雁林堂(がんりんどう)一宇のみ残るこれが雁多尾畑(かんりどばた)の地名の由来である。荒廃のまま百余年を経た鎌倉時代安貞二年(1228)圓城寺の僧俊圓、信貴山へ参詣、杣人(まきびと)(鎮守権現宮尊像)の案内により雁多尾の里松谷を訪れ雁林堂の木尊を拝し感涙、第八十六代後堀河天皇の勅願を仰ぎ寛喜元年(1229)照曜山光徳寺(松谷御堂)を建立、その節供田燈明料として山地境内三その後、俊圓は寛元四年(1246)浄土真宗ご開山、親鸞聖人の念佛門に入り佛念房信乗と号す。すなわち開基(初代住職)である。寛喜の古鐘、龍水福井の井泉あり。その後、土地は安土桃山時代天正五年(1577)織田信長公に没収され、建物は江戸時代慶長十九年(1614)和泉守の放火により消失。現在の本堂は、明和八年(1771)山門鐘楼は宝暦年間(1760)太鼓楼は安永九年(1780)の建立である。尚、飛び地境内として光徳寺地蔵堂が東方120mの所にあり鎌倉時代の梵鐘が現存しています。百町の御寄附を賜う。
ここは柏原市雁多尾畑、「かんりどばた」と読むんですねえ。山中にも関わらず大きなお寺です。入口石柱に、はっきり「松谷光徳寺」と彫りこまれていましたので、ホッとしました。
さて、さらにこの先進んで「松谷御堂」の石柱を確認しなければなりません。とにかく、前進あるのみです。