信貴山(1)
「峠八幡神社」をめざしている途中・・・ここまで来たら、もう「龍田神社」は目の前、いっそ「信貴山」まで行ってしまおう・・・と決意したのでした。
■峠八幡神社
石段をあがって鳥居を抜けると正面には本殿が見えます。石段脇に「地蔵堂」があります。「延命地蔵」との名もあるようです。堂の中には石造の地蔵菩薩が安置されています。この像は花崗岩を浮き彫りしたもので、よく見られる立像ではなく、座像になっています。真っ直ぐ王寺方面に向かうと「龍田神社」です。この場所は、江戸時代の亀瀬越奈良街道で雁多尾畑(かりんどばた)「光徳寺」に通じる道と分岐する場所です。道標には「松谷御堂是ヨリ六丁」と刻まれていました。
・・・これで、「松谷御堂」とは「光徳寺」だと完璧に確認できたのです。やれやれ、それでは「龍田神社」に向かいます。
■龍田神社(大社)
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。正史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。『延喜式神名帳』では「大和国平群郡 龍田坐天御柱国御柱神社二座」として名神大社に列し、二十二社の一社とされた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に龍田神社として官幣大社に列した。紅葉の名所としても有名である。摂社・龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、古来より多くの歌に詠まれてきた。
聖徳太子が竜田明神(法隆寺の守護神)から、法隆寺を建立する地を示してもらったお礼に建立した斑鳩町の龍田神社を「新宮」と呼び、ここ三郷町の龍田神社(大社)は「本宮」と言うそうです。
・・・さあ、「信貴山」へ。
■信貴山
聖徳太子が物部守屋を攻めたときにこの山で毘沙門天が現れ、太子が信ずべし、貴ぶべしといったことに由来すると伝わる。
外観は雄岳と呼ばれる北峰(437 m)、および雌岳と呼ばれる南峰(400.5 m)の二峰からなり、花崗岩を基盤とする安山岩質の岩石から構成される。生駒山地は西側(大阪府側)が断層により急傾斜しているのに対し、東側(奈良県側)は比較的傾斜もゆるく、侵食の進んだ樹枝状の谷が稜線近くまで発達している。このような特徴から信貴山の東側は中腹まで住宅地や樹園地・水田が分布している。
南側山腹には信貴山真言宗朝護孫子寺が建ち、山頂には山城である信貴山城があった。山頂から北へ100mほど下った所から左へ曲がる細い山道に入れば、高安城跡倉庫礎石群の横を通り高安山方面へと繋がる。大正時代から昭和初期にかけて奈良県・大阪府からそれぞれ鉄道路線・ケーブルカーが開通し、1958年には信貴生駒スカイラインも開通して門前町が発達している。