竹内街道(34)
古市駅は羽曳野市の玄関口ですが、なかなか整備が進みませんでした。しかし、ここ最近「駅前広場」が完成したりして、ガゼン美しくなってきました。
駅に案内地図があっただけでしたが、広場に観光案内所もできました。
さて、古市駅から少し歩いて・・・私の住む「碓井」があるわけですが、そこの神社も紹介しておきましょう。
■碓井八坂神社・井徳院址
八坂神社は、もとは「井徳院」と言われた奈良時代の寺の鎮守であったか、あるいは古市神社からの分社であると考えられ、延喜式神名帳にも記されていないので、創建はおそらく平安中期より以後と推定される。現社殿は西面のもので、祭神は海照光神(素戔嗚命、牛頭天王)となっていて、渡来系の神であることがわかる。現在の碓井地区の名称は古代にあった「清泉碓井(せいせんうすい)」の井戸から起こっている。碓井神社の東方50m附近一帯は奈良朝のころ僧「行基」によって創建されたという「井徳院」があり、境内にあった碓型の井戸からは良質の清水が湧き出していたらしい。その水は萬病によく利くとのことで、遠方からも参詣者が多かったと伝えられている。その後、南北朝の騒乱で兵火を受けて消失し廃寺となった。
井徳院址は一時、削り取られて石川堤に運び去られて低い田地となっていたが、そこに盛り土をして碓型の井戸枠が保存されている某宅が建てられたそうである。井徳院の梵鐘は、洪水を知らせる「碓井の水鐘」として有名だった。
羽曳野としては「ぶどう」や「いちじく」が有名ですが、なんと・・・
■碓井えんどう/原産地:羽曳野市/発祥時期:明治時代
明治中期にアメリカから入ってきた実えんどうが、大阪における栽培が府下全域に広がり、その面積は400haに及んだ。海外からさまざまな品種が各所で試作されたに違いないが、なかでも河内国古市郡碓井村(現、羽曳野市碓井)で試作されたものに碓井豌豆の名がつけられたのは他より優れた品質だったからに違いない。碓井豌豆は2系統確認されている。つめの部分が黒い「黒目」と、白い「白目」。莢は白く変色し、決して長大ではなく、豆数も少ない。豆の色は薄黄緑色で、4~6粒程度しか入ってないが1粒が大きいのが特徴であり、皮が柔らかくて甘い。紀州うすいとの違いはここにある。10月下旬から種を蒔き、春には人の背丈ほどに成長。4月下旬から5月中旬に収穫する。
より栽培に適した和歌山県での栽培が盛んになり、従来の碓井えんどうより多収で良品種な「紀州うすい」、その紀州碓井と、きぬさやの一種である美笹を交配した「紀の輝」、極早生の「矢田早生」、和歌山県で生産されているこれら3種総称して「紀州うすい」と呼び、平成18年に地域団体商標に認定されています。和歌山県の特産品で、中でも日高地方が一大産地となっています。関東方面にはあまり出回っておらず、主に関西地域で流通、消費されています。日高地域の栽培面積は約205ha。特徴としては、実が大きく繊細な甘みがあり、ほくほくとした食感が特徴。グリーンピースと比べて皮が薄く青臭さも少ない。関西地方では古くから春を告げる旬の味わい「豆ご飯」として親しまれてきました。
「清泉碓井」が登場しましたので、ついでに「清泉壺井」も紹介しましょう。
■壺井八幡宮
寛仁4年(1020)多田満仲公の4男・源頼信公は河内守に任ぜられ、この地の香呂峰に館を営み同年9月10日より居住、河内源氏の祖となる。翌年、長子頼義公誕生、河内源氏の第2代となる。長暦2年(1038)7月14日、頼義公の長子八幡太郎義家公当地に誕生、続いて次男加茂次郎義綱公、三男新羅三郎義光公等が誕生することにより、河内源氏の嫡流は発祥の地となった。第70代後冷泉天皇の永承6年(1051)、奥州に安倍頼時とその子貞任・宗任の乱がおこり頼義公に賊を平定するようにとの勅命が下り、鎮守府将軍陸奥守に任ぜられた。出陣に際し、石清水八幡宮に詣で戦勝を祈願し、12年3ヶ月の苦戦の末、康平5年(1062)賊を平定した。凱旋後、誓願の験ありとして、康平7年(1064)5月15日、社殿を建立し、石清水八幡宮の神霊を遷し祭ったのが、壺井八幡宮である。この時、香呂峰の地名を壺井と改めた。
■清泉「壺井」
前九年の役の天喜5年(1057)6月7日、頼義公・義家公父子が賊と戦う時大干魃にて飲料水乏しく、まさに敗北せんとするときに、頼義公は下馬脱甲合掌、干天に祈って「諸軍渇に堪えかね、将に敗戦とす。伏して願わくば軍中に、水を得さしめ給え、帰命頂礼八幡大菩薩南無通法救世大士、擁護の手垂れ給え。」と申されしばらく礼拝された後、自ら弓矢をもって岸壁を穿ち給えば、そこより清水湧き出し、熱渇はたちどころに除かれた。これにより、諸軍は大いに勢いを得、遂に賊を誅伏することができた。因って凱旋の際、この清水を壺に入れて持ち帰り、城域内に井戸を掘り井底に壺を埋めて壺井水と称した。以後、香呂峰の地名は、壺井と改められた。湧水は今の北上川となったといわれている。壺井水の井戸は、現在も完全に保存されており、最近まで飲料水として利用されていた。