竹内街道(33)
野中寺を横に見ながら・・・
灯籠と道標がある、ということは、ここを曲がれということになる。
整備された道路から一本西側にある住宅内の道を進むことになる。
これまで、私は上地図の点線部分を「竹内街道」だと信じ込んでいたのだが・・・今回は実践部分であることを確認したわけである。
今回のシリーズで最大のミスは、「白鳥神社」の紹介が抜けていたことであろう。地元の私としては、紹介するまでもない・・・と、うっかりでした。
■白鳥神社(しらとりじんじゃ)
白鳥神社縁起によると、もとは軽里西方の伊岐谷に創建された伊岐宮(いきのみや)が本来の宮であったようだ。その後、戦火に追われ峯ヶ塚古墳墳頂に小さな祠として祀られていたものが、慶長の大地震(1596年)で倒壊し荒廃していたものを、江戸時代初めの寛永末期(1640年頃)に現在の地に遷座したと伝えられている。祭神は、もとは伊岐宮の祭神である日本武尊と素戔鳴命(すさのうのみこと)であったが、現在は白鳥大明神、午頭天王(ごずてんのう)、婆利妻女の三神が祀られている。秋には、だんじりが町内をめぐり、大変にぎわいます。
■白鳥伝説
日本武尊(ヤマトタケル)は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えています。幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。
体を横たえ、日本武尊は大和への思いを、
『大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる大和し美し』
と詠んでいます。
能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、琴弾原(御所市)を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれ、日本武尊・白鳥伝説は今も息づいています。