竹内街道(25) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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竹内街道(25)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わた1  


司馬さん思い出の池「上池」


司馬さんがまだ小学生だったころの話・・・


「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちからきかれたことがある。(中略)「デライ」と、断定すると、(中略)子供たちはさらに、「カミの池よりデライけ」ときいた。私は比較の表現に困り、「むこうが見えん」というと子供たちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけ、と口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。(司馬遼太郎著『街道をゆく竹内街道』より)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わた2  


■竹内集落




村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは道幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変っていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾~竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。(司馬遼太郎著『街道をゆく竹内街道』より)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わた3  


全長はおよそ1.5キロある。たしかに道幅はせまく、しかし車は何とかすれちがっている。司馬さんのころより道幅が広くなっているのだろう。最も残念なことに、現在の竹内街道は舗装されてしまっている。現代においては当然のことといえるが、もし司馬さんの書いたごとく文化庁がこの官道を国宝に指定しておれば、きっと舗装化はまぬかれたにちがいない。つまりは、現在の竹内街道にはもはや国宝の資格はない。それでもそのアスファルトの色が黒ではなく茶色であるのは、かろうじて日本最古の官道というものへの配慮だろう。道の両側には、大きな家が立ち並んでいる。景観を考えてのことであろう、黒やそれに類似した色の家が多く、立派な茅葺きの家も何軒かあった。


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(浄土宗)白雲山未来寺「西光院」

創建は定かでは有りませんが法然上人が広めた本願念仏の道場として、天正年間(1573~92)に創建されたようです享保年間(1716~36)に第十三世浄誉が本堂を再建しています本堂に国重文の木造地蔵菩薩立像(平安後期の作)が安置されています(5等身の幼児のような体形の地藏さんです)竹内峠は身枌みそぎ峠とも呼ばれますその名前の由来となったとされる「身枌観音」と称される長谷式十一面観音も安置されます身枌観音は、像高185cmの立派な像で全身金箔仕上げ天文8年(1538)長谷寺の観音を彫るため楠の霊木が長谷寺へ運ばれる途中竹内峠が狭くて引っかかり、霊木の梢を切り落として通しましたその時、その梢を枌いで造らせたのが十一面観音像だそうです元は、近くにあった「未来寺」の本尊でしたが、享保8年(1723)に西光院に移され観音堂の本尊とされました山門前の石垣に『亀甲石』が使われているそうです


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わた5  


■綿弓塚

松尾芭蕉が門人・苗村千里(なえむらちり)の旧里である竹内に宿泊した時に詠んだ句を記念し、1809年に建てられた句碑です。句碑の建つ庭と近くの民家を整備して休憩所とし、芭蕉の資料や司馬遼太郎氏の色紙などが置かれています。芭蕉は、1684年に竹内を訪れ、當麻寺に参詣して諸仏を拝んだと言います。その後も度々この地を訪れ、孝女伊麻にも会いました。さまざまな句を残し、中でも「綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥」という俳句は有名です。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わち6  


竹内、機会あるごとに訪れているが、何度歩いても気持ちがいい。しかし、このような坂に住む人々の暮らしは不便なことも多いだろうと思う。伝統文化とは、「不便」や「無駄」を愛することに他ならない。


・・・今の私、そのものかもしれない。