竹内街道(24)
峠の少し手前に・・・
■河内国山田郷役行者遺跡
歴史をみると、ヤマトの歴史はこの葛城地方から始まっている。その昔、役行者が葛城に現れる。役行者は実在したと続日本紀にある。役行者は葛城や吉野の山々を縦横無尽に駆け巡り、修験道の開祖となったことはよく知られている。またの機会に詳しく調べてみたいものである。
■竹内峠
県境をなす竹内峠には、2つの峠道がある。一つは旧道の峠道であり、もう一つは国道166号線の峠道である。昭和60年(1985)の竹内峠改修を記念して建てられた碑が、車の行き交う国道の峠道を直下に見下ろす位置に佇んでいる。その記念碑には、故司馬遼太郎氏の筆になる次の和歌が刻まれている。
”我思ふ 心もつきぬ 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関”
この和歌の作者は康資王(やすすけおう)の母で、和歌は鎌倉時代中期の『明玉集』に所収されている。
■鶯の関
和歌に詠まれた鶯の関は、鎌倉末期の徳治2年(1307)に峠の近くに設けられたとされている。だが康資王は寛治4年(1090)に没している。その母の死去はさらに古いはずであり、平安時代の歌人が鎌倉時代にできた関の歌を詠む訳はない。鶯の関はおそらく鎌倉時代より遙か以前から存在したに違いない。
江戸時代の『河内名所図会』には、「鶯の関は、竹内峠より西八丁ばかり。街道の傍には古柳あり。是、古跡なり。一説には、この峠より弐町ばかり西をいう」と記述されている。この記述によれば、当時から2つの説があり、第一の説は現在の万葉の森駐車場あたり、第二の説は行者堂付近とされている。いずれの説が正しいにしろ、鶯の関は現在の竹内峠の河内側にあったことになる。この関所あたりが竹内街道の中間にあたり、関西線が開通する明治中期までは、この付近に旅館や峠茶屋などがあったそうだ。現在は峠からわずかに西に下ったところに、「峠うぐいす茶屋」が一軒オープンしている。
・・・この峠を下ると、竹内集落である。はやる気持ちをおさえながら街道をゆく。