竹内街道(26)
竹内集落に別れを告げ・・・
長尾神社をめざします。
■長尾神社
祭神:天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受大御神(とようけのおおみかみ)
配祀:水光姫命(みひかひめのみこと)、白雲別命(しらくもわけのみこと)、住吉・熱田・諏訪各大神
社殿:(本殿)2棟で東向き、一間社春日造、銅板葺。(拝殿)、(絵馬殿)、(社務所)。
摂社:厳島神社(市杵島姫命)、末社の春日神社(春日四神)を配祀
交通安全祈願の神として祀られています。延喜式神名帳(平安時代)に「葛下郡長尾神社、大、月次、新嘗」と載る古社です。三代実録に、「貞観元年己卯(875)正月二十七日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、今から千百年前には、この地にあったようです。社伝によると、寛平9年(897)より弘安4年(1281)までの間に九階進昇しています。弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで進みました。竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝に鎮座しています。したがって、交通神として早くから祀られていたようです。
祭神は古くは伊勢の内宮神(天照大御神)と外宮神(豊受大御神)でしたが、江戸時代から水光姫命(神武天皇東征に際し、吉野川上に巡行時に井戸の中から現れたとされる水神・井戸の神で、社伝では応神天皇の時代にこの水光姫命が白蛇の姿で降臨したという)とシラクモワケノミコト(水光姫命の父神で水神・雲の神)も祀るようになりました。住吉・熱田・諏訪の各大神も祀る(交通安全)。
祭神の水光姫命は、神武天皇東征の際に川上村井光へ巡幸の時、井戸の中から現れたとされます。古事記や日本書紀では、光って尾が生じていたと記されてます。新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘・豊御富登であり、水光姫の名は神武天皇が授づけられたもの」としている。社伝では「水光姫命が、応神天皇の御代に当麻町竹内の三角岩に降臨され、子孫の加彌比加尼に命じて長尾に祀らされたものでお姿は白蛇であつて、今、神社の東北に藤をもつて覆われている御陰井の藤の花はそれである」とあります。嘉吉3年(1443)の王寺町放光寺縁起に「長尾神社は放光寺の鎮守神で・・・。」とあり、長尾神社の名称の由来は、「城上郡(今の桜井市のあたり)の美女を嫁にされた神様があったが、一向に姿を現されないので、嫁の父が、神様の着物のすそに、長い赤糸を取り付けて、その後をつけていった所、長尾宮には入った」といふ話があります。水光姫命は、豊かな吉野川の水を守られる水神であり、井戸の神様でもあります。むかし、大和に大きな蛇が住み、三輪山を三重にとりまき、その尾は長尾までとどいた。三輪明神(桜井市)が頭で、長尾神社はその尾にあたると言われています。また、竜が住んでいたともされ竜王社(大和高田市)が竜の頭であり、長尾神社は竜の尾にあたるとされています。
一の鳥居から二の鳥居までの参道は直線で300mあり、馬場先(ばばさき)と呼ばれ、鎌倉時代には流鏑馬(やぶさめ)の行事が行われていました。この神社は古くから伊勢の内宮神と外宮神を祀っていたことより、江戸時代に位が段階的に上がり、正一位まで上がりました。
鳥居の前に「カエル」がいます。三福カエル(子連れの母ガエルと父ガエル)で、(交通、健康、財)を守るとされています。氏子からの寄進で、カエルの意味は「無事かえるように」との洒落をこめてあるようです。当地は昔から、交通の要衝の地で交通安全の神様でもあるので、旅に出たら無事帰るようにとの願いを込めたもののようです。現在のカエルは2代目で、昭和の初期の作です。
・・・竹内街道にほれ込み、カエル友の会関西支部長として、蛙の聖地を訪れることができ、これで満足して帰ってもいいのだけれど・・・
私が利用している地図では、まだこの先、大和高田市旭北町まで「竹内街道」と表記されています。これは、「大道=竹内街道」という解釈によるものだと思われます。
多くの人たちが「長尾神社」で旅を終えられるわけですが、私はここで終わりにできない大きな目的があるのです。それは・・・





