竹内街道(13)
誉田八幡宮横を「東高野街道」が通っています。
■東高野街道
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋です。
山城国八幡(京都府八幡市)-洞ヶ峠-河内国田口村(大阪府枚方市)-郡津村(交野市)-中野村(四條畷市)-豊浦村(東大阪市)-楽音寺村(八尾市)-安堂村(柏原市)-国府村(藤井寺市)-誉田村(羽曳野市)-富田林村(富田林市)-長野村(河内長野市)そして西高野街道と合流します。
いつ頃に形成されたかは定かではありません。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言われています。淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って通っています。平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされます。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになりました。現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行しています。
・・・「東高野街道」を南下して「竹内街道」にもどりましょう。
途中・・・
■「古市代官屋敷跡」羽曳野市誉田1丁目
江戸時代、古市は竹内街道(大和街道)と東高野街道(京街道)が交差し、石川水運の剣先船(長さ13mの浅瀬用の運送船)や石川の野通し船(渡し船)の船着場などがあり、水陸交通の要地として非常に大切な地であった。このため、江戸時代中期以降、古市村と誉田村との中間にあたるこの地に「上方代官所」を設け、古市は天領として支配された。幕末には十津川で捕らえられた天誅組河内勢の志士たちの厳しい取調べもここで行われた。
残念ながら取り壊され駐車場になりましたが、案内看板が設置されていました。しかし、その看板すら無くなってしまいました。一本裏道に入りますと・・・
代官屋敷を彷彿とさせる建物がまだあります。
白鳥神社の鳥居・・・
■「白鳥神社」羽曳野市古市1丁目
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている。
■「古市六町蓑の辻会館」羽曳野市古市2丁目
東高野街道(南北)と竹内街道(東西)が交差し「蓑の辻」と呼ばれています。この交差点には、1909(明治42)年頃に富田林銀行として建てられました。その後、野村銀行→大和銀行として利用されたそうです。木造でありながら洋風の装いを出している素晴らしい建物であり、戦時中には焼夷弾が近くに落ちて部分的に壊れましたが丁寧に修復され、後に羽曳野市商工会館へと転用されて豊かなアクセントを与えていました。しかし、2008年にはその建物が解体され、現在は「古市六町蓑の辻会館」が建っています。
「蓑の辻」という名前だけでも、後世に語り継いでもらいたいものです。
