竹内街道(12)
■峯ヶ塚古墳
墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル・高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル・高さ9メートルの前方後円墳です。江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていました(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もありました。墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほかは、表面に葺石はみられません。1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れました。石室や盗掘壙から、大刀・鉄鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、装身具、玉類などが大量に出土しました。また、成人男性の骨や歯なども出土しています。出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられています。
・・・峰塚公園の丘上からのながめは、最高です。
「外環状線」を越えて・・・
竹内街道に入る前に、「古市大溝」を確認しましょう。
それでは・・・
■日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳、前の山古墳)
羽曳野市軽里3丁目にある前方後円墳。現在、宮内庁によって、日本武尊(景行天皇皇子)白鳥陵に治定されており、羽曳野市の名前の由来ともなっています。
ここまで来たら・・・誉田さんへ。
■誉田八幡宮
応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。





