かはっ(3) | すくらんぶるアートヴィレッジ

すくらんぶるアートヴィレッジ

●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

稲むらの火(3)


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わだ1


■あの日「稲むらの火」和歌山でも避難率3%

30年以内に60%以上の確率で発生するともいわれる東南海・南海地震で、津波被害が想定される紀伊半島や四国太平洋岸の和歌山など4県で、東日本大震災発生時の大津波・津波警報で避難したのは対象者の4%だったことが、各県の調査で分かった。揺れが小さかったことも要因という。東日本大震災では死因の9割以上が水死で、60歳以上は65%に上り、逃げ遅れたお年寄りが津波にのみ込まれたとみられるだけに、意識啓発が急務となっている。避難率が最も低かったのは、東南海地震の震源域に重なる三重県の0。7%。対象者32万4385人のうち避難勧告や指示に従って所定の場所に避難したのは2247人にとどまった。同県大紀町には、津波で流された漁船が衝突しても耐えられるほどの避難用タワーが設置され、避難率は12%と際立った。ただし、他の県沿岸部一帯にも高台へ上る避難階段や専用の避難施設があるものの、ほとんど活用されなかったことが浮き彫りとなった。

江戸時代末の安政元(1854)年に起きた安政南海地震の大津波から住民を救った物語「稲むらの火」で知られる和歌山県。東南海・南海地震での死者は5千人と想定されるが、避難率は3%だった。7%と県平均を上回ったのが、稲むらの火の舞台となった同県西部の広川町。稲むらの火は、地震直後に津波が襲うと感じた庄屋が、高台にある水田の稲を燃やし避難の目印とし、村人を救ったという実話に基づく伝承。町担当者は「小学校で伝承を教わっているのが津波への警戒感につながったのでは」という。和歌山県総合防災課の若林昭宏課長補佐は「東日本大震災では、『ここまで逃げれば安全』という過去の事例が通じなかった。想定外の事態が起こることもふまえて対策を考えないといけない」という。南海地震発生時の死者数9627人のうち、津波が6989人を占めると想定されている高知県でも、避難率は5。9%。県沿岸では、南海地震発生から5分以内で10メートル前後の津波が予想される地域もあるが、今回は県内の大半が震度1。県南海地震対策課は「防災無線やテレビで呼びかけても、実際に揺れなかったため実感がわかなかったのでは」。避難率5%の徳島県の南海地震防災課担当者は「地震は待ってくれない。できることからやらないと」と強調する。此松昌彦・和歌山大防災研究教育センター長(防災教育)の話「紀伊半島南岸など地震から10分以内に津波が予想される地域は、コミュニティー維持など難しさはあろうが、高齢者が高台に住んでもらうことも含め町づくり全体で考えないといけない」と語った。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わだ2


■和歌山大学では平成16年5月、大学の知的資源を最大限に活用し、自治体等と連携しながら地域防災力の向上を推進する和歌山大学防災研究教育プロジェクトを立ち上げました。平成22年4月より『和歌山大学防災研究教育センター』を設置し、さらなる防災の普及を目指して活動を続けています。

すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わだ3


■遠足で学ぶ津波「稲むらの火の館」にぎわう

安政南海地震による大津波から住民を救った濱口梧陵の偉業をたたえる和歌山県広川町の「稲むらの火の館」が連日、遠足の小学生らでにぎわっている。梧陵がモデルの物語「稲むらの火」が64年ぶりに小学校の教科書に復活したのを受けて2011年3月、クイズなどを盛り込んだコースを設けてリニューアルした。2011年5月6日は東南海・南海・東海地震で6メートル級の津波が想定される海南市の市立下津小が来館。児童らは熱心に展示資料を見学していた。5年生の岩本拓巳君(10)は「寝室にタンスがあるのは危険だと改めてわかった」。出崎麻奈美さん(11)も「津波が来たらすぐに逃げるよう家族にも伝えます」と語った。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わだ


■語り部サークル

●『稲むらの火』座談会

http://wiki.livedoor.jp/hiromura2005/l/

今や『稲むらの火』は、防災教育のシンボルとして日本国内はもちろんのこと諸外国からも注目されています。『稲むらの火』座談会のサイトを開き、皆で防災ということを考え話し合い、議論し合い、情報を教えあって自ら身を守ることを考えたいと思います。

●2008年11月15日、語り部サークルは、現在修理中の『耐久舎』を見学しました。『耐久舎』は、その起源は嘉永5年の「広村稽古場」です。浜口梧陵が浜口東江・岩崎明岳と相談して、広村青年子弟の教育の場として創立したものです。「広村稽古場」は吉田松陰の松下村塾の開設より5年も早かったのです。その『耐久舎』は、その後耐久学舎、私立耐久中学校、和歌山県立耐久中学校を経て現在の和歌山県立耐久高等学校、広川町立耐久中学校としてその伝統を受け継いでいます。現在、広川町立耐久中学校の校地内に『耐久舎』の記念館が保存されています。この建物は、明治3年に建設されたものを、移築したものですが、昭和21年の昭和の南海地震の際の津波の被害をうけ、修理再建されたものです。和歌山県の史跡に指定されて、文化財として保存されています。この程広川町は痛みの激しい『耐久舎』を修理することになり、工事にとりかかっています。語り部サークルとしては、この修理工事の途中、解体して骨組みだけになった時に見学させて欲しいと教育委員会へ申し入れ許可されたものです。楽しみは、昭和の津波の名残が残っているかどうかでした。津波の後、痛みが激しく保存が非常に難しかったようですが、耐久中学校の卒業生の募金により再建できたそうです。津波の跡形は分かりませんでしたが、再建が難しかった名残があちこちに残っていました。床板の根座に使っている材木は、古い柱であったり、敷居であったりと古木をつかっているのがわかりました。当時の苦労の程が窺われました。歴史的遺産です、これからも大事にしていかなければなりません。

●崎山光一さんは、広川町教育委員会で12年間勤務。現在は浜口梧陵の功績を伝える語り部として防災意識の高揚に貢献。「防災意識は時とともに薄れゆくもの。しかし、過去の経験を糧に、来る大地震に備えてほしい」と訴え続けている。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-わだ5


さて、ぜひ「稲むらの火の館」に行ってみたいと・・・