萬国パクランカイ(19)
・・・「キツネ面」ではないけれど、どうしても紹介しておきたい「キツネ」があります。
■「ごん狐」/著:新美南吉
南吉の代表作で、初出は「赤い鳥」1932年1月号。作者の死の直後に刊行された童話集『花のき村と盗人たち』に収載された。南吉の出身地である愛知県知多郡半田町(現在の愛知県半田市)岩滑(やなべ)地区の矢勝川や、隣の阿久比町にある権現山を舞台に書かれたといわれている。筆者が村の老人から聞いた話という体裁をとっており、「城」や「お殿様」、「お歯黒」という言葉が出てくることから、江戸時代ぐらいから明治にかけての物語と思われる。
■「ごんぎつねの湯」/愛知県半田市平和町5-73
愛知県半田市にある「ごんぎつねの湯」施設名は、この地の出身である新美南吉の童話「ごんぎつね」にちなんで付けられた。知多半島有料道路の半田中央ICのすぐ側にあり、近くには新美南吉記念館がある。道路沿いのある看板を頼りに住宅地の路地を入って行くと、右手に酒蔵をイメージした和風の木造造りの建物が見えてくる。駐車場は施設前の屋根付きと奧側の未舗装の2ヶ所。南吉は青年時代「安城高校女子学校」の先生をしていました。彼は安城の北部新田の大見家に下宿して通っていました。南吉はこの学校に通っている時に結核が重くなり29歳7ヶ月の若さで亡くなりました。
■「新美南吉」(1913年7月30日~1943年3月22日)
本名は新美正八(旧姓:渡辺)。愛知県半田市出身。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、彼の代表作『ごん狐』(1932年)はこの雑誌に掲載されたのが初出。結核により29歳の若さで亡くなったため、作品数は多くない。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。彼の生前から発表の機会を多く提供していた友人の巽聖歌は、南吉の死後もその作品を広める努力をした。地方で教師を務め若くして亡くなった童話作家という共通点から宮沢賢治との比較で語られることも多い。賢治が独特の宗教観・宇宙観で人を客体化して時にシニカルな筆致で語るのに対し、南吉はあくまでも人から視た主観的・情緒的な視線で自分の周囲の生活の中から拾い上げた素朴なエピソードを脚色したり膨らませた味わい深い作風で、「北の賢治、南の南吉」と呼ばれ好対照をなしている。作品の多くは、故郷である岩滑新田を舞台としたものであり、特に少年達が主人公となる作品では、「久助君」「森医院の徳一君」等、同じ学校の同じ学年を舞台としたものが多い。(主人公は「久助君」「大作君」など作品によって変わるが、「徳一君」や「兵太郎君」などはほとんどの話に登場して世界観をつなげる役目を果たしている。)出身地の半田には、新美南吉記念館のほか、彼の実家や作品ゆかりの場所を巡るウォーキングコースも作られている。
■「矢勝川」
愛知県知多半島を流れる阿久比川水系の二級河川。「背戸川」とも呼ばれる。愛知県の半田市と阿久比町と常滑市の境にある半田池を水源とし東に流れる。半田市と阿久比町境を流れ、名鉄河和線と交差し、半田市岩滑東町で阿久比川に合流する。新美南吉の童話「ごんぎつね」の舞台で、兵十がうなぎを獲っている川でもある。童話「ごんぎつね」にも登場する彼岸花を市民の手により1990年から植栽を始め、現在では名所として広く知られるようになった。毎年9月下旬の秋の彼岸になると東西2kmにわたり百万本以上の彼岸花が咲く。
■「小栗大造」
新美南吉の童話の『ごんきつね』の舞台となった中山の地、ここで生まれ育ち南吉さんと矢勝川で泳いだ経験のある『小栗大造さん』、は平成2年の年にある壮大な計画を思い立ちました。南吉がよく散歩した矢勝川の提をキャンバスに、彼岸花で真っ赤な風景を描こうと、ただ一人で草を刈離、球根を植えるその姿に、一人又一人と手伝う人々が現れ、やがてその活動は『矢勝川の環境を守る会』へと発展します。小栗大造さんはもう93歳、平成4年からの一球一球に込める熱意、それは戦死された戦友への悲願花でもあるそうです。そして生きておられる戦友達にも呼びかけて彼岸花の球根をそれぞれ送っていただき、このように増やしていったそうです。さらに、周囲の方達も休耕田を利用して、コスモス、ポピーといろいろのお花も植えられ更に彼岸花を引き立てています。彼岸花の群生地としては、埼玉県日高市の巾着田が有名ですが、群生する延べ面積としてはこちらの方が広いように思われます。川の堤防沿いという制限が有りますので、巾着田のように花の絨毯というわけにはいきませんが、川の風景も取り込んでそれなりに風情が有ります。