萬国パクランカイ(20)
■「新美南吉記念館」/愛知県半田市岩滑西町1‐10‐1
南吉生誕80年、没後50年を記念して、平成6年、「ごんぎつね」の舞台でもある中山に建てられた記念館。建設にあたっては、設計が応募され、新家良浩氏(株式会社新家良浩建築工房)による作品がその最優秀作品として採用された。
展示は、代表作がジオラマを使って非常に分かりやすく展示されていたり、南吉の生涯がパネルで詳しく記されたりしていて非常に良い。半地下構造となっておりずいぶん立体的な造りで、外観からは想像できないほど天井が高い。
ちょっと見ただけでは普通の公園にしか見えない。外観のデザインとしては結構良いが、やはり地元では税金の無駄遣いだという声がちらほら。
■でんでんむしのかなしみ
イッピキノ デンデンムシガ アリマシタ。 アル ヒ ソノ デンデンムシハ タイヘンナ コトニキガ ツキマシタ。「ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イッパイ ツマッテイルノデハ ナイカ」 コノ カナシミハ ドウ シタラヨイデショウ。 デンデンムシハ オトモダチノ デンデンムシノ トコロニ ヤッテ イキマシタ。 「ワタシハ ナント イウ フシアワセナ モノデショウ。 ワタシノ セナカノ カラノナカニハ カナシミガ イッパイ ツマッテ イルノデス」ト ハジメノ デンデンムシガ ハナシマシタ。 スルト オトモダチノデンデンムシハイイマシタ。「アナタバカリデハ アリマセン。 ワタシノ セナカニモ カナシミハイッパイデス。」 ソレジャ シカタナイト オモッテ ハジメノ デンデンムシハ、 ベツノ オトモダチノ トコロヘ イキマシタ。 スルト ソノ オトモダチモ イイマシタ。「アナタバカリジャ アリマセン。 ワタシノ セナカニモ カナシミハイッパイデス。」 ソコデ、 ハジメノ デンデンムシハ マタ ベツノ オトモダチノ トコロヘ イキマシタ。 ドノ トモダチモ オナジコトヲ イウノデアリマシタ。「カナシミハ ダレデモモッテ イルノダ。 ワタシバカリデハナイノダ。ワタシハ ワタシノ カナシミヲ コラエテ イカナキャ ナラナイ」 ソシテ、コノ デンデンムシハ モウ、 ナゲクノヲ ヤメタノデ アリマス。
■「赤い鳥」/創刊:鈴木三重吉
童話と童謡の児童雑誌。1918年7月1日創刊、1936年8月廃刊。日本の近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えた。1923年の10月号を関東大震災により全焼、12月号を雑誌組合の協定により休刊、1929年2月から1931年1月までの間一時休刊するが三重吉の死(1936年)まで196冊刊行され続けた。
鈴木三重吉の目から見て低級で愚かな政府が主導する唱歌や説話に対し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を宣言し『赤い鳥』を発刊した。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明した。表紙絵は清水良雄が描いた。その後菊池寛、西條八十、谷崎潤一郎、三木露風らが作品を寄稿した。この様な運動は誌名から「赤い鳥運動」と呼ばれるようになった。また、『金の船』(1919年、代表者:斎藤佐次郎)、『童話』(1920年、代表者:千葉省三)といった類似の児童雑誌が創刊された。北原白秋は『赤い鳥』において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たした。1918年11月号に西條八十の童謡詩として掲載された『かなりや』に、成田為三の作曲した、楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載された。元々童謡は文学的運動としてはじまり、当初は鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったが、この5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになった。それまでの唱歌と違い、芸術的な香気が高い詩、また音楽的にも従来の唱歌と違い、単純な有節形式でない唱歌と異なる音楽に人々は衝撃を受け大評判となった。以後、毎号、歌としての童謡を掲載。この後、多くの童謡雑誌が出版されたことで、大人の作った子供のための芸術的な歌としての童謡普及運動、あるいはこれを含んだ児童文学運動は一大潮流となっていった。
1984年に日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めた。一流の文学者による作品は、児童文学全体のレベルを高めるとともに、新美南吉をはじめとする次代の児童文学作家を発掘・育成した。一方「童心主義」と呼ばれる方針は、実際の子どもの姿から遊離していたという批判も後になされた。また、寄稿を試みた宮沢賢治の作品を三重吉がまったく評価せず、掲載に至らなかった点も、本誌の限界と評されることがある。漫画家のやなせたかしはこども時代、家に蓄音機があり、クラシックのレコードのほか、「青い目の人形」や「かなりや」など「赤い鳥運動」の頃の童謡が揃っていて、小さな時からそうした音楽に親しんだと述べている。
■「清水良雄」(1891年8月4日~1954年1月29日)
童画画家。東京都文京区本郷に生まれた。旧制京華中学校(現・京華高等学校)卒業。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科卒業。黒田清輝、藤島武二に師事する。在学中に文部省美術展覧会に入選。戦時中に広島県芦品郡戸手村(現・福山市)に疎開。終戦後も東京へは戻らず広島で没した。大正の初め頃から挿絵を描き、鈴木三重吉が創刊した童話雑誌「赤い鳥」においても創刊号から挿絵を描いている。この他「コドモノクニ」でも多くの作品を見ることができる。友人に京華中学校の同級生で日本美術研究家の丸尾彰三郎がいた。
■「コドモノクニ」
1922年1月から1944年3月にかけて東京社(現ハースト婦人画報社)から出版されていた児童雑誌。童話や音楽を中心に童話や音楽、親向けの教育的な頁もあった。大判・多色刷で、創刊期の大正モダニズムを背景とした芸術性、デザイン性を重視した作りは子供向けという範疇を超えて新たな芸術総合雑誌ともいえるものであった。第二次世界大戦中の用紙難で1844年に23巻3号をもって休刊されるまで通算287冊発行され、多くの作家・画家が誌面を飾った。編集顧問は倉橋惣三。編集主任は和田古江。