萬国パクランカイ(11)
■目利きもだます贋作者のすご腕トム・キーティング
美術の歴史始まって以来、つねに贋作問題はつきまとってきた。1976年、イギリスの美術界をパニックに陥れた世紀の贋作者トム・キーティングの贋作事件は有名だ。トムは25年間に2000点の贋作を描いた。一般のコレクターはもとより、世界各国の美術館がトムの作品を購入した。ひょっとしたら日本の美術館にも入ってきているかもしれない。東京・代々木のある画商が言う。
「トムの贋作に限らず、美術館が贋作を入れてしまったというのはけっこうありますよ。とくに外国の古い作家はわかりませんからね。日本には専門家がいないので鑑定が難しい。どことは言えないけど、贋作を買っちゃったという有名な美術館もあるし、個人で集めたものに贋作が多数混じっていて、それがいまや公立美術館のコレクションになっているというケースもあります。外国じゃ通らないけど、日本じゃ真作として通っちゃうというのがあるんですよ」
例えばレンブラントとかルーベンスなどは贋作が割合多い。このクラスの作家は本人が描いたものではなく、工房モノといって弟子が描いたものがたくさん出回っている。工房モノはまだいいほうで、もちろん贋作屋の手になるものもある。
「数十万とか100万円ぐらいで買ったのならまだしも、何億でしょう。本物の値段で買っちゃうんですから。ま、気の毒といえば気の毒ですけど、別に金に困っている人たちじゃないから、なんてことないと思いますがね」
美術館はコレクションを揃える必要があり、作品をまとめて買うことが多く、その危険性はつねにつきまとう。あの有名な岡山・倉敷の大原美術館でさえ贋作がまぎれ込んでいた。同美術館が所蔵するゴッホの《アルプスへの道》。1970年に盗難にあってその後戻ってきたが、それが贋作ではないかと疑われ、収蔵庫に眠ったままとなった。現在は「真贋不明」と明記した上で、資料的価値が高いものとして常設展示している。連日多くの入館者でにぎわっているが、その作品の前にはひときわたくさんの人が群がって“鑑賞”している。
■トム・キーティング贋作事件
トム・キーティングはロンドン下町の労働者階級の出身で、幼少の頃から家業のペンキ塗りを手伝うかたわら、絵画に対する技術力と教養も磨いていた。1947年頃から絵画修復家として生計を立てるようになり、エリザベス女王やスコットランド城主たちの前でその技術を披露したほどである。しかし、その一方で25年間に史上最高である二千点以上の贋作を制作した。それはドガ、ルノアール、ゴッホ、ゴヤ、サミュエル・パーカーなどの巨匠から無名画家まで広範囲に渡っており、デッサンなどの小作品も多数あった。彼は後に「巨匠の魂が自らの手に宿った」と語っているが、これは若き日の戦争による精神的ショックが原因であろうか。
事件の発端は1970年2月12日、タイムズ紙の記事。あるオークションに出品され落札されたサミュエル・パーカーの作品が贋作ではないかという投書がある。しかも他にも疑わしい作品がクリスティーズ、サザビースにあるという。そこで疑わしい絵画を探っていくと全てジェーン・ケリーという女が売りに来ていた。さらにたどると その同棲相手の「トム・キーティング」という男につきあたる。その男の職業は「美術修復家」イギリス王室が所有する邸宅の壁画修復をする程の腕前。タイムズ紙が疑わしい作品を科学分析した所、当時使われていなかった紙・顔料の使用がわかり 贋作であると証明された。
1976年8月27日、トム・キーティングの会見。「私にとって贋作をつくることなんて朝飯前 週末だけで21枚描いた事もある。今までに全部で2000枚は描いた」パーマーだけでなくレンブラント、ルノワール、ドガをはじめ色んな作品の贋作を作ったという。しかし驚くべきことにキーティングはその贋作を画商にとても安い値段で売っていた。贋作を作ってそれで金儲けをするのが彼の目的ではなかったのだ。
それでは なぜ彼は贋作を作ったのか?
1917年、ロンドンの労働者階級に生まれたトム・キーティング。絵画のテクニックはあったものの、画家としての才能は開花せず、彼は家族の生活を支える為に「美術修復家」の道を選ぶ。美術修復家としての名前が売れてきたそんなある日、「本物が高くて買えない人達の為に有名画家の模写を描いてほしい」と、キーティングのもとに画商から依頼があった。芸術を純粋に愛するキーティングはその注文を快く引き受けて絵画を模写した。しかしキーティングが模写した絵画が高級な画廊で本物として売られているのを聞かされる。彼が模写した絵に画商が後から有名画家のサインを付け加えていたのだ。すぐに画商に抗議するもまったく相手にされない。そこでキーティングは、調べれば贋作とわかるように作品を作り、金儲けしか考えていない美術関係者の信用を失墜させようと考えたのだ。
1976年、念願通りに贋作発覚。1977年、詐欺罪で逮捕される。しかし、扱ってきた作品の真贋を詮索されたくない画廊関係者は捜査に非協力で、結果として無罪になった。1983年12月12日、クリスティーズで今までに類を見ないオークションがあった。『トム・キーティング贋作オークション』キーティングが売らずに手元に残してあった贋作137点がオークションで完売。しかもオークションの絵を購入したのは画廊関係者でなく彼を応援する個人の人達、キーティングが世間に認められた瞬間であった。1984年、トム・キーティング亡くなる。
ちなみに彼の贋作2000点のうち、見つかっているのはたった30点だけらしい。
■ナチスに協力した売国奴か、一泡吹かせたヒーローか?ファン・メーヘレン
歴史上最も有名な贋作者の一人となったファン・メーヘレン(Han van Meegeren)の栄光と挫折の生涯が、膨大な資料を踏まえ、スピードとスリルに満ちた文体で甦る。芸術家として挫折をおぼえ、そして絵の贋作者として成功を収め栄光をつかんでゆく。彼の完璧な作品には、5000万ドルという値と世界中の賞賛が与えられていた。それゆえに、贋作の罪を告白したときでさえ、法廷で衆人環視の中、自ら筆をとり、その完璧さを証明して見せなければならなかった。 “描写の作業が始まるや、そこにいる誰の目にも、その男が≪姦通の女≫を簡単に描ける画家で、おそらく≪エマオの食事≫を制作するだけの才能に恵まれていることが明らかになった。
-本文より-
これは、ある贋作者の驚きに満ちた真実の物語である。完璧な偽造者の人生と技術、偽造を見つけ出す専門家たちとの攻防、そして今なお偽造を野放しにしているアート界の馴れ合いとエゴを暴露する渾身のノンフィクションである。
オーファーアイセル州デフェンテル出身。幼い頃から画家を目指しており、オランダの古典派に属する画家に師事した。美大への進学を希望していたが、父の反対にあいデルフト大学の建築学部へ進学。デルフトのボートハウスの設計などを手がけた。1913年に建築学部の学生としては初めてロッテルダム賞を受賞し、画家としてデビューした。その際、受賞作品の販売を契約しながら(メーヘレン自身による)複製画を販売していたことが発覚し、トラブルとなった。画家としては成功せず、ポストカードやポスターの挿絵を描いて糊口を凌いでいたが、自分を認めようとしないオランダの美術界に復讐する、という動機から次第に贋作ビジネスに手を染めるようになり、没落した貴族から極秘に仕入れた絵画を売却しているというふれこみで多数の贋作を制作・販売した。メーヘレンは主に17世紀オランダ絵画の贋作を制作し、特にフェルメールの贋作を好んで制作した。
当時はフェルメール研究が緒についたばかりで、ごく一握りの専門家を騙せば真作と認められたことから、贋作が作りやすい状況にあった。このため、まずメーヘレンはフェルメールの作風を模写するための研究を重ねた。そして、題材はフェルメールが手がけていないとされていた宗教画を描く事に決めた。そして、メーヘレンは当時の真贋判定方法で主に用いられていたアルコールを浸した綿で絵画の表面を拭くという方法を回避するため、絵の表面に特殊な樹脂を塗り、炉で一定時間加熱するという手法を編み出した。また、絵を書く際に用いるキャンバス(および額縁)はフェルメールらと同じ17世紀の無名の絵画から絵具を削り落としたものを使用し、絵具、絵筆から溶剤に至るまで当時と同じものを自ら製作して使用し、さらに絵の完成後にキャンバスを丸めたり墨を塗るなどして古びた色合いを出すなど、その贋作の手法は徹底していた。このようにして製作された「エマオの食事」(1936年)は、当時のフェルメールの研究家たちから「本物」と認められ、ロッテルダムのボイマンス美術館が54万ギルダーで買い上げた。
また、彼はダダイズムやキュビズムなどの現代芸術を軽蔑しており、古典派の具象画こそ芸術であるとの持論を持っていた。ある時、ピカソを絶賛する人物の前で即興で「ピカソ風の絵」を描いたところ、相手がその絵を売って欲しいと言ったが「たとえ贋作を描くとしても劣った奴の贋作は描かない」と言って絵を破り捨てたというエピソードが伝わっている。
1945年5月29日にメーヘレンはナチス・ドイツの高官たちにフェルメール作とされていた「キリストと悔恨の女」などの絵画を売った罪で逮捕・起訴された。拘留中にメーヘレンはナチス・ドイツに売却した一連の絵画、そして「エマオの食事」が自ら製作した贋作であることを告白。証拠として法廷で「フェルメール風」の絵を描いてみせ、さらに一連の絵画に対しX線写真などの最新の鑑定が行われた結果、彼が売りさばいたフェルメールなどの絵とされてきた絵画が彼の手になる贋作であることが証明された。このため、メーヘレンは売国奴から一転してナチス・ドイツを騙した英雄と評されるようになった。結局ナチス・ドイツへの絵画の販売については無罪となり、1947年11月12日にフェルメールらの署名を偽造した罪で当時詐欺罪の刑として最も軽い禁固1年の判決を受けたが、既に酒と麻薬で体を蝕まれていたメーヘレンはまもなく心臓発作に倒れて翌月にアムステルダムで死去した。
■ウィーンの贋作美術館「フェルシャームゼウム (Faelschermuseum)」
ウィーンの贋作美術館が、美術ファンの注目を集めている。美術史美術館、ベルヴェデーレ、アルベルティナなどのウィーンを代表する美術館所蔵のブリューゲル、デューラー、レンブラント、クリムト、シーレだけでなく、ターナー、モネなど外国作品の贋作展示もあり、絵画市場の現状を垣間見ることにもなる。説明を聞いて絵画作品の信憑性に対する信頼を失いショックを受ける人や感動する人など見学者の反応は様々だ。建築家のご主人と美術館を設立し、館長を務めるディアネ・グロブさんは 「現在の絵画市場で取引されている作品の60%は贋作」、インターネットでの取引ではその確率が80%に達する、ダリのエッチングは90%以上だという。グロブさんが贋作に興味を持ったのは、オリジナル画家として自立できない画家たちの屈折した人生に関心を持ったからだ。一口に贋作といってもいろいろある。最初から、複製であることを明らかにした「コピー」。コピーをオリジナルと偽って売りことを目的とした「贋作」。印象派などの有名画家の作風を真似た「贋作」。有名画家のサインを偽った「贋作」。そして、有名贋作画家のサインを偽った「贋作の贋作」。通常、贋作が絵画市場に出回るときは、「亡くなった祖父母の家の屋根裏から、こんなものがでてきたのでびっくりした」といって所有者は匿名で画商が仲介して取引されるという。
中堅画家の場合、有名贋作画家の偽作品の方が市場価格が上がってしまうこともあるというから、絵画市場はやっかいだ。ミケランジェロは1490年15歳の時に、修業のために複製を言い渡された作品のオリジナルは手元において、自分の描いたものを返却したが誰も気が付かなかった。絵画の存在に贋作はつきまとうことだろう。ルーブルでエドガー・ムルクラによる贋作が発覚したときには、「ムルクラは黄金の腕の持ち主だ」というコメントを美術館側が発表しただけで、贋作を展示してきたことはうやむやになった。また、ドイツでは教会絵画の贋作に、当時ヨーロッパに存在しなかった七面鳥が描かれていたためアメリカ大陸を発見したのはドイツ人だという議論が噴出したという。英国の代表的贋作画家トム・キーティングは何層にも描いた作品の中にグリセンリンをまぜて、手入れをすると作品が一瞬のうちに爆発して消滅するようにしたり、下層にらくがきを書き込んで自作であることの証明をしていたという。美術商の間では贋作は公認の商品であるから、美術ファンは油断ができない。原作であることを証明するのも難しいのは事実で、国立美術館のコレクションでも専門家の間での本物、偽物の議論はつきないという。絵画ファンを疑心暗鬼に陥らせる贋作美術館は、人気が高まる一方だ。