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■竹脇無我さん脳出血で重体/病院に緊急搬送


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-むが


時代劇「大岡越前」やドラマ「だいこんの花」などで知られる二枚目俳優、竹脇無我(67)が8月21日、脳幹出血で都内の病院に緊急搬送されていたことが分かった。関係者によると竹脇は21日午前3時ごろ、東京・大田区内の自宅で倒れ、意識不明のまま都内の病院に運ばれて緊急入院した。脳幹出血とみられ、現在も予断を許さない状態で集中治療室(ICU)にいるという。竹脇の自宅前や入院先には同日夕方以降、それぞれ報道陣十数人ほどが集まった。同日夜には竹脇の親族関係者とみられる女性が自宅に戻る姿が見られたが、竹脇の病状などについて報道陣に明かすことはなかった。二枚目俳優として活躍していた竹脇だが、49歳ごろから鬱の症状が出て、97年には2人の娘をもうけた妻と離婚。2000年に糖尿病と鬱病治療のため入院し、退院後も仕事を1年休養するなど、次第に俳優業は限定的になっていった。03年には、10年にわたる鬱病との闘いをつづった初著書「壮絶な生還うつ病になってよかった」を出版したのを機に現場復帰。最近では昨年公開の映画「大奥」(二宮和也主演)に出演したほか、講演活動や絵の個展を開くなどマイペースに活躍してきた。


●竹脇の自宅近くに住む人は「3日前に会ったばかり。元気そうだったので驚いている。たばこも吸っていたし、信じられない」と話した。未明に救急車が到着したことについては「サイレンの音は聞きましたが・・・」と答えた。


■竹脇無我さん死去/クールな二枚目俳優

クールな二枚目俳優として活躍した竹脇無我さんが21日午後2時5分、小脳出血のため死去した。67歳。葬儀は22日、近親者のみで行った。喪主は長女、竹脇友加さん。昭和19年、千葉県生まれ。名アナウンサーとして知られた故竹脇昌作さんの3男で、青山学院高等部に在学中の35年に映画デビュー。渋い二枚目役として、映画「人生劇場」などで一躍スターになった。また「岸辺のアルバム」「大岡越前」などテレビドラマにも多く出演し、父譲りの美声で女性ファンの支持を集めた。二枚目役を演じ続けるストレスから、40代後半に鬱病を患い、長く闘病。平成9年には2人の娘をもうけた妻と離婚。12年に糖尿病と鬱病治療のため入院し、退院後も仕事を1年休養した。15年に鬱病との闘いをつづった初著書「凄絶な生還/うつ病になってよかった」を出版したのを機に現場復帰。最近では昨年公開の映画「大奥」(二宮和也主演)に出演したほか、講演活動や絵の個展を開くなど活躍。来年1月には明治座創業140周年記念公演「女たちの忠臣蔵」の出演も決まっていた。


■「凄絶な生還、うつ病になってよかった」竹脇無我(マキノ出版)

父の自殺、次兄の夭折、長兄の失明、自身の離婚・・・。頭の中が「死にたい衝動」で埋め尽くされる。うつ病地獄に落ちた著者が「また芝居がしたい」と再生するまでを綴った闘病手記。うつ病を正しく知る参考にもなる書。タイトル通り、本書は、8年もの間苦しんだ竹脇無我さんの体験談です。サブタイトルに「父子二代にわたる"死の衝動"に克った僕」とありますが、NHKのアナウンサーだった無我さんのお父さん(昌作さん)もうつ病にかかり、49歳で自死されたそうです。


●「凄絶な生還」より・・・

・僕が思うに、うつ病から抜け出すのになくてはならないものが4つある。一に休養、二に薬の助け、三に治したいという自分の気持ち、そしてもう一つは、周囲の人の支えだ。僕の場合も、本当にいろいろな人の世話になった。
・病気のなかには、どんなにきちんと治療しても、発症前に比べると心身のパワーが低下するものが多い。でも、うつ病は違う。きちんと治療すれば、病気になる前より、もっと元気になる。僕はそう実感している。
・その大きな理由は、さっきも言ったように、うつ病になることで、「違う世界が見られる」ところにある。
・そしてもう一つ。うつ病になってそこから抜け出したことで、僕は「等身大」で生きられるようになった。
・最近、つくづく思う。時計の針は逆には回せないが、ムダに回っているわけでもないと。針が回るごとにつらい記憶は薄らぐし、何歳になっても人は変われる。うつ病から回復して、僕はいろいろな面で変わった。前よりも、いい生き方ができるようになったと思う。
・だから、いまは負け惜しみでなく、「うつ病になってよかった」と思っている。
・うつ病対策がお粗末なことの背景には「自殺は自分で選択する道」という考え方があるような気がする。基盤に病気があるとはいえ、「最終的には自分で死を選ぶのだから、しかたがない」という考え方だ。
・しかし、うつ病になった経験からいえば、これは違うと思う。うつ病になると、判断力や思考能力が極端に低下する。そして、前にも書いたが、頭の中が何かに支配されているように、抗いがたい死への衝動が起こるのだ。
・「自殺」とか「自死」という字画を見ると、いかにも自分で判断して死を選んだみたいだ。しかし、実際はそうではない。行動しているのは確かに自分だが、その頭の中は病気に支配されているのだ。
・僕は、うつ病による自殺は、「自殺」ではなく「突然死」といったほうがいいと思っている。突発的に死にたい衝動にかられ、自分を見失って陥る行為だからだ。


すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-まこと


■「勇ましく高尚な生涯―18歳で逝った若き信仰者の日記」竹脇真理

17歳で洗礼を受け、伝道に人生を賭けようとしていた高校生が、脳腫瘍で夭折するまで綴っていた1年半の日記。40年以上も前に出版され隠れたベストセラーの復刊本。著者は故・竹脇昌作氏の次男で俳優・竹脇無我氏の兄。著者は、かつて名アナウンサーとして一世を風靡した竹脇昌作氏の次男で、俳優・竹脇無我氏の兄である。17歳で洗礼を受け、クリスチャンとして未開の地への伝道を決意するも、父の自死を契機に一層信仰を深める。しかし脳腫瘍を発病、闘病過程でひたすら生と死を見つめていくなかで、伝道者として家族を友人を、そして隣人たちを救いたいという一心で残り少ない日々を過ごす。限られた命と知りながらも、最期まで自分の価値を、意義のある人生を追い求めていく姿が瑞々しい感性で綴られている、この日記を時代や年齢、宗教の枠を越え、老若男女を問わない世代に伝えていきたい。「いのちのことば社」から刊行され、隠れたベストセラーとなった名著である。


●『勇ましく高尚な生涯』より・・・

我家に於ける艱難のことだ。もう幾日にもなるのにおやじが少しもよくならない。今、彼には何が必要であるのか?彼はなぜなおらないのか。兄貴に聞く。今日はおやじをずい分責めていたようだ。俺にはそのようにしか感じられなかった。同じことばをいうのにも響きがある。微妙な差で、励ましにもなり、逆効果にもなる。あんな頑固なおやじ、わがままなおやじ、自分かってなわからずやのおやじに、いくらおだやかなことをいったってわかるかといいたいところか。結局は自分さといいたいところか。いやそれよりも前に「おれはおやじのためを思ってやってるんだ」というかもしれない。たぶんこれが当っているだろう、もし兄貴のことばで彼が本当によくなる確信があったら続けてくれたまえ。「おやじは、自分の病を自分でますます悪くしているだけじゃねえか」と君はよくいうね。兄貴は、重い重い、つらいつらい病によく耐えしのんでくることができた。兄貴はこれを何のおかげと、何の力と考えますか。兄貴はクリスチャンだから、それにふさわしい答えを期待します。「何、いうか。俺が自分でつちかった力ではないか」とはいわないでしょうね。そのつちかった力は神様から来たのですから、そして父や母や姉や仁美(じんみ) や恵美(えみ)の小さな祈りを通して与えられた力なのですから。


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■タケワキスタジオ社長:竹脇義果さん

平成15年2月2日NHK教育テレビ「こころの時代」より・・・

この本(『勇ましく高尚な生涯』)が彼が死んで、翌年に出たんですけれども。何度か読んだ筈なのに、その当時、今聞くほどの印象はなかったんですよ。あんまりいいことは書いていないな、というのは覚えてはいたんですけれども。去年この本がまた復刊されて、今度は私はテープで聞いたんですけれども。いやぁ、驚きました。十六歳、十七歳の弟が、私のことをこんなところまで見抜いていたのかな、というのがね。ここに書いてあることはもうほんと私が自己中心というんですかね、自分のことしか考えていない。だから父の病気にしても、その病気の者の立場に思いがまったく立っていなかった。だからここに書いてあることは、今はワン・フレーズ、ワン・フレーズが、「あ、その通りだな」という。「その通りだった」という。その通りのいうのは、「自己中心の人間だった」ということですよね。「父がほんとによくなることを願っていた」というよりも、「あなたが悪いんじゃないか」というようなね。ただ、最近気が付いたんですけども、「自己中心」という、「自己中心との闘い」というのかなあ。「自己中心」というのは、「自分が自己中心だ」ということを全然分からないんですよ。気が付かないで五十年位・・・そうですね、五十歳越えてからですかね、自分が、「これはおかしいぞ」ということに気が付き始めたのはね。自己中心というほど、始末の悪いものはないですよ。

父が元気だった頃の竹脇家の兄弟。亡くなった真理さんと義果さん、そして三男の無我さんは、特に仲がよい三人でした。父の死後、同じアナウンサーとしてラジオ局に就職した義果さん。しかし、眼の病気が悪化して、二十九歳でその仕事を断念せざるを得ませんでした。弟の無我さんは、父の友人の紹介で映画の世界に入っていました。ラジオ局を辞めた竹脇さんは、無我さんのマネジャー、そしてプロデューサーとして隆盛を迎えようとするテレビドラマの世界に乗り出していきます。

1977年、竹脇さんは思い切った借金をして、六本木にコマーシャルようの貸しスタジオを建てました。失明の不安があるが故の決断でした。弟・無我さんとの仕事を諦めた義果さんは、芸能界でのキャリアを捨て、新たな道を模索したのです。深夜に及ぶ芸能界での仕事の無理が祟ったのか、僅かな視力が残っていた竹脇さんの左目の状態は、徐々に悪化していました。毎朝の掃除は、置いてある物の位置を確認するための日課です。手探りで始めたスタジオ経営は、景気が上向いたこともあって、次第に軌道に乗りました。二十四時間営業でも、お客が途切れないほどでした。左目の手術を繰り返していた竹脇さんが、最後の手術を受けることになったのは、そんな忙しさの最中、42歳の時でした。

手術を受けても、視力は回復しませんでした。竹脇さんは、退院後、点字図書館の朗読テープを、何時間も聞くようになりました。ドストエフスキーやトーマスマンなど、世界の文学をテープで読破し、やがて聖書の朗読テープを聞くようになっていました。結婚を機に夫婦で洗礼を受けていましたが、芸能界での仕事が忙しくなるにつれ、教会への足は遠のいたままになっていました。20年ぶりに再び教会に足を運んだのは、竹脇さん50歳の時でした。そこで出遇ったのが、新約聖書・ヨハネによる福音書の言葉でした。あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。(ヨハネ十五章十六節)この言葉との出会いは、その後の竹脇さんの生き方を大きく変えていくことになりました。

認定NPO法人/日本視覚障害者セーリング協会http://www.jbsa.jp/


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■竹脇昌作(1910~1955)

青山学院英文科卒業。NHKアナウンサー第1期生。戦前戦後を通じ「パラマウント・ニュース」他のニュース映画で活躍。民放発足後はラジオ界に戻り、ラジオ東京「東京ダイヤル」のDJとして人気を極める。アナウンス技術も抜群であったが、独特のサビのある低音は“マダム・キラー”と称され一世を風靡した。

すくらんぶるアートヴィレッジ(略称:SAV)-しょうさく


この作品は、太平洋戦争の簡潔な記録であると同時に、テレビ時代を目前に自ら世を去った不世出の名アナウンサーの貴重な録音である。


・・・竹脇家のそれぞれの人生、宿命?運命?、無我さんのご冥福をお祈りします。